【渋柿】#コミュニティについて考える、1。

コミュニティについてこれからドンドコと考えて行きたいから、

「#コミュニティについて考える」という回を今後おそらく何回も続けて行く。

そして特に毎度見返すこともあるであろう自分に対して言いたいのだが、

第一目的は、まさに「考える為だ」それは何をかというと人の居場所について「コミュニティ」のことだ。

そもそもなんで自分が「コミュニティ」について考えたいのかというと、

今真っ先に思うのは、、、うーん。

あまりないな。

というのも幾つにもそれを喚起させる物や経験や思いがたくさんある。

時系列的にいうと、

自分は学校の先生になりたかったというのが、

一つ大きな理由として挙げられると思う。

僕は学校の先生になって、どんな境遇の子でもそしてそのほかの生徒たちにとっても学校という空間が彼らにとってまずはそこに行けば安心感が得られるという場所にしたかった。

そもそも人と関われる仕事がしたい思いと、人の人生を大きく左右する多感な人格形成が行われる子どもに真剣に向き合うことができる。

そんなことを恐らく当時学校の先生になりたいことの理由として考えていたと思う。

そして、もう一つ先生を目指したい。目指さなければいけないと、自分が自分に対して誓うように思ったのは、学校や教育に従事する大人たちの強い復讐心と呼べるものがあったと思う。

ちなみに僕がいじめられていたりとか、ある学校の教員にものすごく意地悪をされたというとかでは、ない。

それでは何かというと、当時テレビや新聞などでも大きく報じられていた、

いじめ問題だった。それとその中でその問題や責任に対して真摯に向き合おうとしていない大人たちであった。

死んでしまった子だけではなく、

そもそも子どもは与えられる世界というのはとても狭い。

それは一般的に、家庭と学校の2つのコミュニティである。

それはそうであろう、今僕のような大学生で成人になればなんでもできる。

自分が参加したいイベントやコンサートにも行けるし、

加入したい何か会員制のコミュニティにでも学校のサークルから外部にも今はインターネットなどを利用していくらでも自分の居場所を探す選択肢はある。

でも、子供はその選択肢は限りなくないであろう。

週5日学校に通うのは当然で、

そしてその学校との報復先になるのは、家庭である。

たとえもう一つ居場所を持てていたとしても、

習い事のスクールなどであると思う。



書く時間が少しなくなってしまったので少し言いたいことを急ぐと、

そんなこどもに開かれている選択肢はかぎり無く、ないんだ。

そして学校には子どもたちには通うことが国の法律で守られている。

それゆえに、学校にいる大人の責任は僕は重いと思っている。



なのに、

なのに、

当時の大人たちには、そうした事についてそれを感じさせる言動をしなかった。

その大人の方々の心が優しくなかったのか、

またそうした学校教育などが持つ責任に対して広く考えることの能力がなかったのかとか、、、そのことはここでは議論することではない。

でも、学校は子どもたちに

大人がとても真剣に守らなければいけない、

安心して、通うことができる「居場所」にならなければいけないと、

当時と今の僕は考えている。


改めていうと、学校という居場所の価値について当時僕がテレビで見ていた大人やまたは身近にいた大人たちにそれをしっかりとした考えや、またはそうした事に向き合う何か心というか、何か不足しているようなものを大きく感じた。

その子どものとても大切な居場所を守りたかった。

それはその居場所は本当に大事にされないといけない居場所だと思ったからだ。

一旦今日はここで書くのをやめたい。



実は、佐渡島庸平さんの著書を読んで、

この「#コミュニティについて考える」

の考えを書こうとずっと思っていたが、

文章としてまとまりがないといけないとか、

そんな今思えばひとまず書いたほうが絶対にいいと思うことに頭が及んでいなかった。

今回はひとまず、書いたのでめちゃくちゃ散らかってしまっているが

【渋柿】として、ひとまずは書いた次第。



ちなみに今からこれに参加してくる。

行ってきます!


『居場所の未来』概要
https://peatix.com/event/614206

〔日時〕3/28(木) 18:30~20:30 (終了後に懇親会有り)

〔会場〕永田町GRiD 6F ATTiC

〔登壇者〕家入一真/東畑開人/櫻本真理/佐渡島庸平


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