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「容疑者Xの献身」には、隠された続編があるというお話 後編

※注意!
 このnoteには、「容疑者Xの献身」と「真夏の方程式」のネタバレが含まれています。
 両作品を読了した後に読みすすめることを強くおすすめします。


 前編で、「容疑者Xの献身」における花岡美里が、「真夏の方程式」における高畑成実であると(勝手に)結論させていただいた。

 この解説を始める前に、後編ではまず、「真夏の方程式」を読んだ際に読者が抱くであろう、ある違和感の正体を探ることから始めていきたいと思う。
 何よりこの違和感こそが、「真夏の方程式」に秘められた本来のテーマを解き明かす鍵になるからだ。


「真夏の方程式」とはどんな話だったのか

 「真夏の方程式」については、実は読んだことがない人も多いのではないかと思っている。
 それもそのはずで、「容疑者Xの献身」はミステリー関係の賞を5つも獲っているのに対して、「真夏の方程式」は特に無し。映画についてはそれなりの興行収入だったものの、容疑者Xまでは伸びず。恐らく、ドラマや容疑者Xの延長で観に行った人が多かったのではないだろうか。

 いくつか読んだ方の書評や映画の感想を調べてみると、以下のような内容が多いことが分かる。

「子供と一緒にいる湯川先生が新鮮で良かったです!」
「夏休みの雰囲気がよく出ていて、小学生の頃に戻りたくなりました」
「青い海と青い空がとっても綺麗で、事件と対比してより切ない気持ちになりました」

 少し違和感を覚えないだろうか。

 これらの感想には、ガリレオシリーズのコンセプトであるはずの、トリックの斬新さに触れたものがほとんど見つからないのである。
 そして、トリックについてはある重要なコメントが見られる。

 それは、
「容疑者Xの献身」と、トリックが似ている……。
というものである。

 「真夏の方程式」を読んだ方はもちろん、本作の核心となるトリックが、容疑者Xと全然似ていないことは分かるだろう。
 では、似ていると思ってしまう原因は何なのか。

 それは、犯人が殺人を犯す動機となる「高畑成実が隠している過去」が、容疑者Xで起きた事件の構造そのままだから、である。

 このような構成になっているがために、最後に明かされる成実の過去を読んだときでも、「この展開、なんか前に読んだことあるな……」と思ってしまうのである。

 そしてこの感覚こそが、「真夏の方程式」を読んだときに感じる違和感の正体なのだ。

 実際、本作で使われているトリック自体は、それまでのガリレオシリーズと比較して斬新なものとは言い難い。秘められていた成実の過去も、容疑者Xの物語とほとんど同じで、知ったところであまり驚きはない。
 その前に刊行された「聖女の救済」は、湯川に「ありえない答え」「虚数解」とまで言わしめるほど凝ったトリックだったことを考えると、何となく拍子抜けしてしまう気持ちも分からないではない。

 しかし少し待ってほしい。
 ガリレオシリーズの作者は、あの東野圭吾である。
 違うシリーズならまだしも、同じシリーズ内で、しかも超人気作品で、同じ構造の話を盛り込んだりするだろうか。
 ファンなら恐らく即答で、「そんなことはありえない」と言うだろう。

 つまりこの「真夏の方程式」の構造は、最初から意味があってそうなっている、と考えるほうが自然なのである。

 ではその理由とは何か。

 それこそが前編の結論である、花岡美里=高畑成実説なのだ。
 本作における高畑成実とは、容疑者Xで取り残された花岡美里が、心に闇を抱えたまま成長した姿だ、と捉えながら読むのが正解なのである。

 そして「真夏の方程式」では、もう一人重要な人物が出てくる。
 それが柿崎恭平である。

 本作の犯人は殺人を犯す際に、まだ小学生である恭平に指示を出すことでトリックを完成させている。これを見抜いた湯川が、恭平の人生を守るために奔走するのが本作の見どころなのだが、もし湯川が現れなかったとしたらどうだろうか。

 事件が起きたその時には、恭平はまだ自分が犯罪に加担したことに気がついていない。しかし、仮に警察が恭平の存在に気付かずに事件が終息したとしても、恭平自身は、いずれどこかで、自分の行動が人を殺めたということに気がつくかもしれない。

 するとどうだろう。
 柿崎恭平も、自分で意図したわけではないにしろ、花岡美里や高畑成実のように、人を殺したという罪を背負ったまま生きていかなければならなくなる
 あるいは、誰にも相談できないという点で、前の二人よりももっと酷い状態になるかもしれない。

 この、容疑者Xから続く悲劇の三重構造こそが、「真夏の方程式」に込められた、真のトリックなのである

 湯川学は、この悲劇の連鎖を断ち切るために、本作の事件に挑んだのだ。


「真夏の方程式」が伝えたかったこと

 これまでに説明してきたことをまとめると、「真夏の方程式」とは、「容疑者Xの献身」で解決されなかった問題を、あえて一冊かけて解決し直した物語だ、と言うことができると思う。

 では何故、作者である東野圭吾氏は、このような複雑な構造の物語を書いたのだろうか。

 ここからは私の想像が多く含まれるが、こういうことではないかと思っている。

 もし容疑者Xで、湯川が素直に負けを認めて、真実を誰にも話さなかった場合を想像してみてほしい。
 石神は自分が捕まる前提で物事を進めているので、湯川が何も言わずとも、最終的には自首するなどして、服役した可能性が高いと思われる。
 そしてこの場合、冨樫殺害事件については完結で、捜査が再開されることはない。
 つまり花岡母娘にとっては、石神の犠牲によって、完全犯罪が達成されるのである。

 これは警察の捜査制度や司法制度の盲点をついたトリックであり、最後のあの場面で花岡靖子が罪を認めて自首する以外、誰にも覆しようがない。
 これこそが石神の、いや、東野圭吾氏のアイデアの素晴らしさなのである。

 しかし、一方でこういうジレンマもあったはずだ。

 完全犯罪が達成された、という物語を、世に出してもいいものなのだろうか?

 これは東野圭吾氏だけでなく、出版社側も思ったに違いない。つまり……

 人気作家の人気シリーズで、トリックも素晴らしい。世に出すべきなのは間違いないが、現実世界でも成り立つような完全犯罪が、見事に達成されました、という物語は、業界としては出版できない

 このような結論になったのではないかと推測される。

 その結果として、「容疑者Xの献身」は、あのような全員が不幸になる結末を選ばざるをえなかったのではないだろうか。

 そしてこの結末は、東野圭吾氏にとっても不本意なものだったのではないかと考えられる

 それは、他のガリレオシリーズから読み取ることができる。
 例えば「真夏の方程式」では、湯川は一貫して、警察に真実を悟られないように動いている。これは容疑者Xのラストとは真逆の行動である。
 さらに、その後の作品の「猛打つ」では、犯人が説得に応じないならば、自分が犯人の代わりに殺人を犯す、というとんでもない行動に出る。
 しかしガリレオシリーズを通して読んでみれば、湯川学とは、もともとこういうキャラクターだったことが分かる。
 むしろ、容疑者Xのラストだけが、湯川学としては異質な行動だったのだ。

 多分に想像が含まれた話ではあるが、このような背景を理解すれば、「真夏の方程式」に込められた真のメッセージが見えてくる。

 それは「真夏の方程式」のラストで、自分が殺人の手伝いをさせられたと気づいた柿崎恭平に対して、湯川が残す言葉に全て含まれている。

 自分はこの先どうすればいいのか、と悩む恭平に対して、湯川はこう言った。

 その問題には、私も答えることができない。
 起きたことを、無かったことにもできない。
 君が自分で考えて、答えを出すしかない。
 だが……。
 私も、君が答えを出すまで、一緒に考え続けよう。
 忘れるな、君は一人じゃない。

 ……これは恭平への言葉だが、作中では成実に向けた言葉でもある。
 そして、高畑成実=花岡美里であることを理解すれば、「容疑者Xの献身」で置き去りにされていた、美里への言葉でもあることが分かる。

 つまり「真夏の方程式」とは、作者側の都合で犠牲になってしまった美里を、作品を超えて救うための物語だったのだ。

 ちなみに、「容疑者Xの献身」から「真夏の方程式」までには、現実世界で6年の歳月が流れている。

 私が容疑者Xを読んだのは大学生のときだったと記憶しているが、真夏の方程式を読む頃には社会人としてバリバリ働いていた。

 忙しい中、合間を縫って「真夏の方程式」を読み終えたとき、深い感動と共に、「容疑者Xの献身」が本当の意味で完結したことを理解した。

 このラストの台詞こそが、6年という時間をかけて、東野圭吾氏が出した答えだったのだと悟ったのである。


 長々と書いてきたが、これが、私の言いたかったことのすべてである。
 賛否両論あると思うし、ただの妄想と言われればその通りである。否定するつもりもない。

 だが、もし興味を持ってもらえたなら、もう一度「真夏の方程式」を読み返してほしい(もちろん映画でもいい)。
 また違った感動が味わえると確信している。

 最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

 

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