見出し画像

菅波三郎の二・二六事件 ~鹿児島にて~

はじめに

 二・二六事件蹶起将校・安藤輝三が国家革新運動の道へ進んだのは、昭和6年8月に歩兵第3連隊(歩三)に転任してきた菅波三郎の影響だった。安藤を皮切りに、菅波は歩三・歩一(歩兵第1連隊)に同志を増やしていく。安藤と共に二・二六事件蹶起将校の中枢を担った野中四郎・栗原安秀・香田清貞は、菅波を通して隊附将校を中心とする国家革新運動――青年将校運動へと参画していった。

 しかし菅波は、転任から1年経った昭和7年8月、満洲へ転任することになった。十月事件の関与でその運動を問題視されていた中、菅波の影響を受けた陸軍士官学校の士官候補生たちが五・一五事件に関与したため、東京から遠ざけられた。明確な左遷だった。

 菅波自身、もはや東京に戻ることはないと察して、同志たちに「これから蹶起の時期は自分たちで判断してほしい」と言い残して、東京を去った。

 それから3年半後、東京の同志たちは二・二六事件を起こした。そのとき菅波は、鹿児島にいた。

事件発生を聞く

 2月26日の朝、菅波は満洲へ赴任する部下の見送りのため鹿児島駅にいた。そのまま歯医者に寄るために、菅波は連隊へは正午に出勤すると事前に届け出ていた。

 このとき、菅波が駅にいたのと同じ時間帯に、鹿児島憲兵分隊長・林耕三大尉が出張先から帰還し、鹿児島駅におりた。そこで林は新聞の号外で事件を知る。号外が配られていたとき、既に菅波は駅を離れていたのだろう。彼は部下を見送り、歯医者に寄った後、帰宅してから事件を知ったと語っている。駅で知ったとすれば、悠長に歯医者に行ってはいられないだろう。

 林はすぐに鹿児島県庁傍の憲兵分隊へ帰り、鹿児島で最も警戒すべき人物、菅波三郎の行動査察を開始した。ところが、連隊にもおらず、自宅にもいないことがわかり、憲兵分隊は慌てた。

 菅波は五・一五事件以来、要注意人物として警戒されていた。彼が鹿児島に戻ってきたときも憲兵分隊ではその対応を考え、結局、刺激しないということになり、監視はしていなかった。もしも菅波が東京に向かい、同志に合流していたら……それは鹿児島憲兵分隊にとって不祥事であった。

 正午には菅波は連隊に出勤し、憲兵分隊は胸を撫でおろした。しかし、このことで神経質になったのか、憲兵分隊の監視はあからさまになる。

 菅波はといえば、事件を受けて煩悶としていた。

 菅波が鹿児島歩兵第45連隊に来たのは、昭和10年8月のことだった。元々菅波はここが原隊であり、昭和6年8月に東京へ転任する前も鹿児島にいた。4年ぶりに戻ってきたことになる。

 五・一五事件後、菅波は満洲においても活動を続けたが、やはり運動の中心は東京であるため、東京にいた頃に比べてその成果は振るわなかった。しかも、国内では西田税と大岸頼好という、最も影響力を保持する二大巨頭の間に対立感情が生じ、俄かに、東京の同志を中心とする西田グループと、地方の同志を中心とする大岸グループの対立が派生していた。

 原因は北一輝の『日本改造法案大綱』である。これを金科玉条とするのか、参考文献とするのか、この点で、西田と大岸が対立した。といっても形としては『改造法案』を金科玉条とする西田が、批判的な大岸に一方的に激昂したというのが正しく、大岸自身はこの事態にむしろ困惑していた。大岸シンパの将校が両者の調整のために西田に会いに行って、かえって西田と言い争いになったことが、両派の対立まで派生した要因だった。

 対立は決裂こそしなかったものの、長く続いた。その間、渋川善助が調整に走り回ったが、渋川も「こんなことを繰り返しているくらいなら、郷里に帰って祖父に孝養を尽くしたほうがましだと思ったこともある」と末松太平に零すほど、事態は進展しなかった。

 昭和9年11月には、陸軍士官学校事件が起こった。村中孝次・磯部浅一ら青年将校が、クーデターを計画していると、士官学校生徒が通報したため、村中らが逮捕された。通報した生徒が士官学校生徒隊長・辻政信の意を受けて内偵し、かつ辻がこれを陸軍省軍事課の片倉衷に報告して逮捕につながったこともあり、青年将校たちはこれを幕僚側の青年将校への弾圧と認識した。

 しかしここに至っても、西田・大岸の対立は解消せず、村中と磯部は停職となり、この間に『粛軍に関する意見書』を発表して三月事件・十月事件などの内情を暴露したが、そのために昭和10年8月、免官されることになった。そして同月、同志・相沢三郎が軍務局長・永田鉄山を殺害した。時を同じくして、菅波が鹿児島へ転任するため、帰国した。

 帰国し、鹿児島へ引っ越した菅波は、腰を落ち着ける暇もなく、妻を残して東京へ向かった。菅波は道中、胃腸病を発し、連隊には絶対安静のため休暇の延期を要請したが、連隊から連絡を受けた東京憲兵隊が調べたところ、確かに病院には行っているが「絶対安静のため」と言いながら、菅波は精力的に渋川や西田、村中らと会合していた。

 菅波の上京によって、西田・大岸の対立問題は大きく進展することになった。渋川は末松への通信で大岸と西田の関係は菅波の上京で、「極メテ喜ハシク進展セントシテイル」と言っている。あとは菅波が帰路、大岸に会っていけば「九割ハ氷解スル筈ダアトノ一割ハ道義的慎ミの問題ダ」としている。

 西田・大岸の間で苦慮していた渋川にすれば喜ばしいことだろう。とはいえ、相沢事件の後では両者もさすがに対立してはいられないという意識が働いても不思議ではない。菅波は和解のきっかけになったといえる。青年将校に上下関係はなかったが、西田と大岸の間に立てる「格」を持っていたのは、やはり菅波しかいなかった。

 とはいえ、渋川が「九割方氷解」「アトノ一割ハ道義的慎ミ」と語るように、完全な和解ではない。やはり「今は対立を忘れて相沢公判に注力しよう」というのが実情であろう。実際のところ、菅波自身は大岸と考えを同じくして、『改造法案』を金科玉条と考えることは出来ないと思っていた。菅波が、元々北一輝に会って国家革新を志したことを思えば皮肉な話である。

 一方、菅波自身はこのときの上京について、異なる印象を二・二六事件に関する自らの公判で語っている。同志は隊務も多忙だったろうが快く会ってはくれず、東京同志の空気は「西田派に傾く様子が多分にあり、大岸や私から離反して行った」と、菅波は感じていた。

 ともあれ、そうした対立的感情・空気を呑み込んで、青年将校は相沢公判を通して、幕僚らの陰謀を暴露し、問題を提議して、国内の革新意識を高めようとした。それは公開裁判であった五・一五事件公判で、被告人に対し同情論が盛り上がったことを踏まえた、有効な戦略だった。

 しかし、急進派の青年将校にとっては、それすらも悠長であった。

菅波の煩悶

 事件発生を聞いたとき、菅波はすぐに、それが栗原安秀・磯部浅一ら急進派の仕業だと見抜いた。磯部が『行動記』に記しているように、栗原と磯部は、同志たちが自分たちと同じように行動、すなわち蹶起を志向しないことが理解できなかった。二人のそうした空気というものも、菅波は上京したときに接したのだろう。実際、先述の自分や大岸から離反した急先鋒の将校として菅波が名を上げたのは、栗原と磯部であった。

 だが、菅波は事件に村中孝次が加わっているとは思いもしなかった。慎重派である村中は参加せず、追って詳しい情報が村中から来るだろうと菅波は考えていた。

 菅波は同志・相沢三郎中佐による軍務局長・永田鉄山刺殺事件の裁判を通して、軍内におけるいわゆる「幕僚ファッショ」の陰謀を暴露し、粛軍と国家革新の必要性を訴えようと考えていた。そのために自身が証人として出廷するつもりだったのだ。それが、今回の蹶起で水泡に帰し、かえって「幕僚ファッショ」に青年将校排撃の口実を与えたことを悲しんだ。

 また菅波には、青年将校運動における先達者という自負があった。実際、二・二六事件蹶起将校のほとんどは、菅波を通して青年将校運動に参画している。軍上層部においても、菅波は青年将校運動の指導的存在と見なされ、憲兵隊からも警戒されていた。

 しかし今回、菅波には何の報せもなかった。村中が参加しているとは思わず、彼からの報せを待つも、一向に連絡はない。しかし、村中も菅波に何の報せも寄こさなかったわけではない。事件前の2月21日、村中は満洲へ向かう高橋健三中尉に、菅波三郎・北村良一・若松満則への手紙を預けている。内容は第1師団渡満前に何事か生じるかもしれないが自重して貰いたい、というものだった。だが、菅波は受け取れなかったようである。

 鹿児島歩兵第45連隊には同志といえる将校もおらず、連隊内では事件の話題は特に語られなかったため、菅波はその胸中を誰かに吐露することも出来なかった。

 そんな中、自分を監視する憲兵の姿に、菅波は不快感を抱く。

憲兵隊の監視

 憲兵の監視はあからさまだった。26日夜、菅波は自宅近くで不審な動きをする男を捕まえ、自宅で問い詰めると憲兵だということがわかった。

 この時点では、菅波は穏便だった。東京の同志に同調することも、東京へ向かうつもりないと語り、その旨分隊長にも伝えるよう言伝した。このような監視も止めるように、とも。

 ところが翌朝、別の憲兵が菅波宅の戸を叩き、その所在を確認しに来た。しかも、監視とも言えず、あまりに乱暴で、当然菅波には不快だった。その憲兵を問い詰めると前夜の憲兵に伝えた伝言内容も知った上での行動だった。菅波によれば、憲兵は「菅波が何事か策動するが如く新聞記者の申すに依り」、所在を確認しにきたと語ったという。菅波は「汝は新聞記者の小使なりや」と詰った。

 菅波は連隊へ出勤する前に林分隊長に談判することを決め、憲兵分隊へ向かった。林と会うや、菅波は先日来の憲兵の動きを批判し、尾行を中止するよう迫った。しかし林は右翼運動家からの接触を予防するためで、やむを得ないことだと取り合わなかった。

 この頃、熊本においては歩兵第13連隊の青年将校同志・志岐孝人中尉が、蹶起将校を支援するために策動していた。それ自体は取る足らぬもので、また成果もなかったが、地方の憲兵隊としては警戒を強める理由としては十分であった。

 熊本の動きは、菅波の関知するところではなく、林の言い分も菅波を納得させるものではなかった。双方の言い分は平行線のまま会談は終わった。

 この頃、青森の末松太平、朝鮮羅南の大蔵栄一など、地方の同志たちは蹶起将校の有利になるよう、策動していた。彼らにとっても蹶起は寝耳に水だったが、起ったからにはその精神を汲んで昭和維新が断行されるよう願ってのものだった。五・一五事件の際にも、陸軍青年将校は海軍青年将校に同調しなかったが、事件が起きた際には、菅波を中心として陸相・荒木貞夫に維新断行を進言している。

 しかし中には、香川の小川三郎のように事態を静観している者もいる。和歌山の大岸頼好にいたっては、上官である歩兵第61連隊長・飯村穣によって連隊長官舎に留め置かれていた。

 菅波は末松・大蔵のようには動かず、大岸のように行動を制限されもしなかった。姿勢としては小川に近かったが、菅波の不満は憲兵分隊へと向けられた。

 折しも、連隊内では市内の中学校職員が「陸軍は国宝的人物を殺した国賊なり」と語ったことが話題になり、けしからんという声が上がっていた。菅波は憲兵隊は自分を監視するよりも、こうした「軍民離間的言動」に対処すべきではないかと、憲兵分隊への不満を強くした。

「軍民離間的言動」というが、詰まるところは軍部批判の言動である。軍人の感覚で言えば、こうした言動で兵たちが動揺し、統率に影響を与えるのを避けたいというところだろう。実際、菅波はそう考えて、28日、将校・下士官に対し、軍民離間的言動に動揺させないためにも、二・二六事件の状況を周知し、安心するよう訓示すべきであると、連隊長に進言した。これは、翌29日が日曜日で、兵士たちの外出日だったからだ。

 連隊長もこれに応じ、28日、軍装点検を終えた後、隊付中佐の植村猛中佐が連隊長代理として、下士官以上に次のように訓示した。

「二・二六事件ノ精神ハ五・一五事件ノ精神ト同一ニシテ、孰レモ国ヲ思フノ真心ニ出デタル行動ナリ、目下帝都ノ治安ハ確立セラレアルヲ以テ、安神セヨ。然ルニ市内ニ軍部ヲ国賊呼ハワリスルモノアルトノコトナルガ、諸氏ハ斯ル言動ニ禍サルル勿レ」

「東京陸軍軍法会議判決書 19 菅波三郎以下二名」『新訂二・二六事件判決と証拠』より

 植村中佐の訓示内容は、実際の28日の二・二六事件の状況とは合致していない。これは仕方のないことで、第45連隊には、何の情報も回ってこず、事件の状況も新聞からの情報が頼みだった。戒厳司令部の発表すらも新聞で知るほどなので、中央で皇軍相撃つの状況が迫っているとは知る由もなかった。

 この点から考えて、植村中佐の訓示は事件に対する漠然としたイメージに基づいていると思われる。よって訓示の趣旨は、後半の国賊呼ばわりする言動に動揺するな、という点であろう。

 この後、連隊は夜間演習のため、練兵場に出た。だが菅波は練兵場が他の中隊でいっぱいであるため、自分の中隊は市街戦を想定した演習に切り替えることにした。そうして菅波中隊は、鹿児島県庁周辺へ向かった。その近傍には鹿児島憲兵分隊の庁舎があった。

中隊員への訓示

 28日夜8時、菅波中隊は県庁と憲兵分隊を包囲する形で展開した。前日からの菅波とのやり取りを思えば、憲兵分隊が緊張するのは当然である。林分隊長は連隊長に通報したが、連隊長は問題なしとして取り合わなかった。

 一方菅波は、展開を終えた後は指揮を部下たちに預け、分隊を訪れ、林への面会を求めた。菅波はあくまで演習のついでに前日の決着をつけにきたという姿勢だったが、前日と違い、外には菅波の1個中隊が展開している。それがまったく関係がない存在と見ることは林には出来るはずもない。話の内容は前日とほとんど変わらないが、その語気は前日よりも烈しくなった。

 やがて菅波は「ヤル時ハ必ズヤルト云フベシ、飽迄尾行ヲ付スルニ於テハ、之ヨリ先ハ決戦ナリ、自分ニハ百数十名ノ部下アル」と告げる。「百数十名ノ部下アル」というのは、前日のやり取りでも菅波は言っている。その時は「そういう立場を慮ってほしい」とニュアンスがあった。だが、実際にその部下たちが控えている状況で、「前日と同じ意味合いだな」と林が判断できるはずもない。林は菅波の言を受け入れ、尾行の中止を約束した。後に裁判で証人として出廷した林は、これは「詭弁である」と証言したが、強がりの感は拭えない。

 林にとって詭弁であれ、菅波は言質は取れた。分隊を出て、演習を終えると、菅波は路上に中隊を集結させ、演習の講評をし、その後次のように訓示した。

「今回東京ニ於ケル行動部隊ハ、彼等元老、重臣ヲ以テ、我国体ヲ冒涜シ、国運ノ進展ヲ妨害スル国賊ナリトノ確信ニ基キ之ヲ討チ、今尚市内要部ヲ占拠ス、之全ク憂国ノ衷情ニ出デ、大御心ニ仕ヘ参ラスル尽忠至誠ト信ジタル行動ニシテ、相沢中佐ノ誠心ト全ク同一ナルコトヲ確信ス、然ルニ民間ニ於テハ、ソノ真精神ヲ理解セズ却テ反軍的言辞ヲ弄スル者アルモ、諸子ハ決シテ斯ル輿論ニ惑ハサルルコト勿、抑々一君万民ノ国体ニ於テ、中間ニ介在スル特権的存在ハ許サルベキニアラズ、然ルニ為政者ニシテ、我国現下ノ情勢上、国防充実ノ為、当然必要ナル軍事予算ノ増大ト、一般国民生活ノ窮迫等ノ事実ヲ関連セシメ、故意ニ国民ヲ惑ハサントシテ宣伝スル者ナキニアラズ、是今日ノ非常時局ニ際シ、軍民離間的言辞ノ流布セラルル所以ナリ、畢竟大御心ト帰一スルハ唯誠心アルノミ、吾人ハ何事ニヨラズ犠牲的ニ事ニ当タラザルベカラズ、予ノ精神モ亦同一ナリ、予ハ此ノ精神ヲ以テ諸子ニ臨ム、若シ予ノ命ズルコトニ誤リアラバ先ズ予ヲ殺セ、若シ間違ナシト確信スル者ハ随ヒ来レ、予ハ何時デモ先頭ニ立ツベシ」

「東京陸軍軍法会議判決書 19 菅波三郎以下二名」『新訂二・二六事件判決と証拠』より

 菅波は同日の植村中佐の訓示もあって、このように訓示したと語っている。だが、明らかにその内容は菅波のこれまでの活動に裏打ちされたものであった。植村中佐の訓示の趣旨、「反軍的言辞」や「軍民離間的言動」に動揺するな、というのを伝えるには、あまりに蹶起将校の精神に踏み込み過ぎている。

 菅波の訓示に対し、兵士たちは全員「ハイ」と答え、その日の演習を終えた。

終結

 翌朝、菅波のもとに、熊本の九州帝国大学の学生・岡島良平が訪ねてくる。岡島は熊本の歩兵第13連隊の志岐孝人中尉と気脈を通じており、志岐より、菅波に熊本の状況を伝え、指導を仰ぐよう言われていた。

 しかし菅波は、岡島とは面識がない。そのため、岡島を憲兵分隊の密偵と疑い、尾行中止を約束した林分隊長が、新戦法に出たのだと見た。そのため菅波は余計なことは言わず、個々に努力されたし、という趣旨のことを岡島に語った。一時菅波は連隊に呼び出されて中座したが、その帰途、新聞の号外が東京で奉勅命令が下り、「叛乱部隊」が討伐されると伝えた。

 帰宅した菅波は岡島に号外を示し、「愈々武力弾圧だ。すぐ熊本に帰ってしっかりやりなさい」と金を渡して帰熊を促した。菅波は最後まで岡島が憲兵の密偵だという疑念を捨てられなかったが、岡島のほうでは疑われていると感じてはいなかった。

 かくして二・二六事件は終わった。いったいどのように行動部隊から叛乱部隊へと変わっていったのか、事態の推移が何もわからないまま、菅波の二・二六事件は終結した。

 二・二六事件後、菅波は拘束され、起訴された。罪状は「叛乱者を利す」である。具体的には、麾下1個中隊を背景に尾行中止を林分隊長に「強要」したことが、「叛乱拡大ヲ予防スベキ憲兵ノ職務上ノ行為ヲ掣肘」したと見られたこと、その後の中隊兵士に対する訓示内容が「暗ニ東京ニ於ケル反乱者ノ行動ヲ是認スベキ旨ヲ要望」していると取られたことが、「叛乱者を利す」と見なされた。

 菅波はこれらに対し、論理的に反論し、林との行き違いも「誤解が重なったもの」としている。「公判状況」によれば、最終的に実刑判決を受けたものの、菅波は時に涙を見せて、法廷内を粛然とさせ、判士の中にも涙を見せて感服した者もいるなど、菅波が主導権を握っていたことが見て取れる。ちなみに、その感服させたのは、思想的な部分の話ではない。

 このためか、『日本憲兵正史』で二・二六事件時の鹿児島での一件を記した個所は、憲友会の発行でありながら菅波の行動が威圧的に聞こえて誤解されたのは仕方がないとして、むしろ鹿児島憲兵分隊の勇み足を批判する論調であった。

 菅波が憲兵分隊の行動に苛立ちと不満を募らせたのは、東京の状況が全く掴めないことと、青年将校運動の先駆的存在という自負を持ちながら、事前に何も知らなかった知らされたことに煩悶していたところに、憲兵の不快な策動が目についたことにある。

 菅波にすれば、憲兵の動きは自分を要注意人物と見なしてのことだと理解できる。五・一五事件の頃から、こうした監視はむしろ慣れたものだったろう。だが、二・二六事件が起きてからでは、憲兵は「先駆的存在の菅波にも何か動きがあるのではないか」と警戒する。そのことが菅波に「先駆的な存在でありながら、同志の蹶起を事前に何も知らなかった」という事実を突きつけ、その自尊心を傷つけたのではないか。

 菅波は「上京はしない」と語るも、「(蹶起することを)知らなかった」「自分は関係ない」とは言っていない。同志として言えるはずもない。憲兵の動向のみならず、そうした内面的な苛立ちも募っていった結果が、28日の中隊に対する訓示だったのではないだろうか。

 菅波は理性的であり、論理的である。その点が安藤や野中ら後に続く青年将校の信望を集めた所以である。だが、激昂しないわけではない。橋本欣五郎ら桜会急進派のクーデター計画に関わった時、橋本たちがクーデター後の内閣や、成功後参加者には勲章を配ると、利によって同志を集めていると知るや、菅波は橋本たちを批判し、橋本の側近・小原重孝との取っ組み合いに発展している。激発する一面も菅波にはあった。

 そう考えると、中隊員に対する訓示はこの数日ため込んでいた苛立ちの爆発といえる。菅波自身、直前の林との会談で、興奮していたことを認めている。昂った感情をそのまま言葉にした結果が「若シ予ノ命ズルコトニ誤リアラバ先ズ予ヲ殺セ」という、一言になったのではないだろうか。

 菅波自身、何とか東京の同志を支援したいと考えてはいたが、中隊員への訓示がそれにあたるとは思えない。見ようによっては、それは事件に対する菅波の見解を示しただけとも見える。連隊長は菅波の行動を特に問題視せず、戒厳参謀長・安井藤治の備忘録でも、3月2日の時点で、陸軍省からの会報で菅波について触れているが、「大ナルコトナシ」と問題視してはいなかった。

 それでも起訴されたのは、やはり菅波が青年将校運動の先駆的存在であるがゆえに、事件時の行動と合わせても、何の対処もしないわけにはいかなかったのだろう。そして起訴の口実となり得ることを菅波はしていた。静観していた大岸頼好は、連隊長の管理下におかれていて何もしなかったため不起訴。同じく静観していた小川三郎も起訴はされたが無罪となった。この点から見ても、何もしなけれは菅波は起訴されなかった可能性があった。

 とはいえ、不起訴になっても大岸は現役を去り、小川も目立った運動をしないまま、特務機関の任務につき、太平洋戦争中、ビルマで自決した。軍に残れたとしても、青年将校運動の継続は至難の業だったろう。

 昭和12年1月18日、菅波は禁錮5年の刑が確定し、陸軍軍人である資格を失った。菅波の青年将校運動も、ここに終わったのである。

参考文献一覧

蘆澤紀之『秩父宮と二・二六』原書房 1973年
新井勲『日本を震撼させた四日間』文藝春秋 1986年
伊藤隆・北博昭編『新訂 二・二六事件 判決と証拠』朝日新聞社 1995年
伊藤隆ほか編『二・二六事件秘録』全4巻 小学館 1971-1972年
刈田徹『増補改訂 昭和初期政治・外交史研究 十月事件と政局』人間の科学社 1989年
末松太平『完本 私の昭和史 二・二六事件異聞』中央公論新社 2023年
全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部 1974年
原英雄・澤地久枝・匂坂哲郎編『検察秘録二・二六事件』1-4 角川書店 1989-1991年
松本清張・藤井康栄編『二・二六事件=研究資料』Ⅰ~Ⅲ 1976-1993年


よろしければサポートをお願い致します。いただいたサポートは、さらなる資料収集にあてさせていただきます。