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二・二六事件私的備忘録(七)「首相生存を知っていた人々・後編」

総理救出まで

 2月27日、小坂曹長は青柳・小倉を従えて官邸に入った。だが、憲兵だけで岡田を救出するのは難しい。そこで小坂は、秘書官・福田耕に協力を仰いだ。
 初めは小坂を信用していなかった福田だったが、彼が岡田を救出する意を伝えると泣いて喜び、宮中の迫水と相談していた救出作戦を開陳した。
 小坂はこの作戦を是とし、岡田に対し勅使が送られるので、その出迎えの相談という名目で福田と、青柳・小倉と共に首相公邸の応接間で作戦の細部を詰めた。
 応接間は公邸玄関と接しており、彼らが相談している間に、多数の弔問客が訪れていた。
 小坂が福田の官舎に行く前には、海軍省法務局長・山田三郎法務官と平出英夫海軍中佐が弔問に訪ねてきた。平出は岡田が軍事参事官だったときの副官である。前日には福田の官舎を訪ねて、「岡田大将の遺体をいつまで官邸に置いておくつもりだ」と詰め寄っていた。
 小坂は遺体の周りには歩哨が立っていて、お詣りできないと断り、平出たちは引き上げた。だが、小坂のいないところで、弔問客はどんどん訪ねてきていた。
 青柳の回顧によると朝早くには、岡田の海軍兵学校時代の同期、竹下勇海軍大将がもう一人将官と連れたって弔問に訪れ、遺体に扱いに関し、案内の蹶起将校に怒鳴っていた。だが、竹下は遺体の顔を見なかったようである。
 同じ時期に公邸に詰めていた蹶起将校・池田俊彦少尉の回顧では、海軍大将・百武三郎を案内したことを書いている。池田は百武の息子とは中学校時代の同級生で見知った仲であった。ただ、百武が遺体の違いに気づいたかは定かではない。
 今一人池田が案内した人物に、「岡田海軍中佐」がいる。池田はこの人物を「岡田首相の甥であるという」と記しているが、岡田の甥に海軍中佐はいない。岡田の次男・貞寛は「池田の記憶違いだろう」としている。ただ、海軍側で蹶起部隊との渉外に当たっていた人物に、岡田為次中佐がおり、恐らく池田の言う「岡田海軍中佐」は、岡田為次中佐のことだと思われる。
 岡田中佐は、遺体の顔に被せられた白布を取り除いて礼拝していたが、「何かあわてて白布を元にもどしあたふたと帰って行った」と池田は記している。このとき、岡田中佐は遺体が松尾伝蔵大佐だと気づいたのだろうと、池田は見ていた。
 正午には、横須賀から派遣された海軍陸戦隊指揮官・佐藤正四郎大佐が、参謀一人を伴って弔問に来ていた。佐藤は少佐時代、岡田が連合艦隊司令長官だった時期に、旗艦「長門」の砲術長を務めていたため、その顔をよく知っていた。ゆえに白布を取って、遺体が別人であることに気づいた。
 だが佐藤は、そのことを顔に出さずに公邸を去り、ただちに大角海相に報告した。大角は既に迫水から真相を聞いていたが、佐藤に「口外しないように」と命じている。
 恐らく、先の岡田中佐も大角に報告していただろう。迫水の話と岡田・佐藤の報告で、大角は岡田の生存を確信したと考えられる。
 27日午後、岡田の私邸がある新宿角筈から、10名ばかりの弔問客が来訪した。福田の案内で公邸に入った弔問客だったが、そのうちの一人が遺体を見て卒倒したのか、福田と小坂に抱えられて、すぐに外に出てきた。福田と病人は、弔問客が乗ってきた車の一台に乗って公邸を去り、公邸詰めの蹶起部隊兵士たちは、何が起きたのかわからず呆然とそれを見送った。
 福田たちが抱えた病人こそ、岡田だったのである。福田も憲兵も後の弔問客のことは考えておらず、彼らは遺体のある部屋と襖一枚隔てた一室に留め置かれて困惑していた。
 やがて宮中から駆け付けた迫水の手配で、弔問客は帰路についた。車が一台足りず、持ち主は釈然としないまま自宅に帰ったが、その晩、車は死んだはずの総理大臣を乗せて戻ってきた。
 こうして、岡田は虎口を脱した。

遺体搬出

 岡田の脱出後、迫水は妻や官舎街の書記官たちの家族に、その場を避難するよう伝えた。それまで蹶起部隊に同情的だった情勢は、変わりつつあり、永田町が戦場になるかもしれなかった。
 迫水は遺体搬出のために、棺と迎えの手はずを整え、自らは迎えがくるまで松尾の遺体の傍にいた。心細かったが、折よく平出中佐が再び弔問に来たので、遺体にかかった白布を除いて、真相を明らかにし、そのまま共に遺体の傍にあった。
 霊柩車を従えて公邸にやってきたのは、岡田の次男・貞寛である。迫水は遺体の正体がバレずに納棺するため、平出に加え、叔父にあたる首相秘書官・大久保利隆、鈴木貫太郎の弟孝雄(陸軍大将)の長男で同じく首相秘書官・鈴木英、そして内閣官房総務課長・横溝光暉に応援を頼み、貞寛には「遺体は残酷になっているから」と言って、外で待たせた。この時点で、大久保・鈴木も真相を知ったであろう。
 遺体の正体がバレないまま、迫水たちは公邸を脱出した。無事に角筈の私邸に着いたが、そこには松尾夫人・稔穂、松尾の次男・寛二、三男・修三、長女・清子がいた。迫水はまだ真相は語れないと、遺体はひどい状態なので棺の中は見ないようにと言い置いて、自身は宮中へ向かった。松尾家の人々にすれば、夫は父はどうなったのか、気になるところだったが、稔穂は聞かなかった。
 宮中に入った迫水は、居並ぶ閣僚たちに首相生存を伝えた。恐らくその夜のうちに、陸軍幹部たちも真相を知ったであろう。
 日付が変わって28日午前3時、迫水は岡田家・松尾家の親類だけを集めて、岡田の生存と松尾の死を告げた。同日、岡田は参内し、宮中の舎人たちを驚かせた。

蹶起部隊は気づかなかった?

 蹶起部隊の兵士の中には、遺体が岡田ではないのではないかと思い、栗原に報告した者もいる。だが栗原は聞かなかった。恐らく栗原には焦りがあったのだろう。いつまでも岡田が見つからない中、中庭で虫の息の老人を見つけて、兵たちの前で止めを刺し、不明瞭な肖像画で首実検をして、これが岡田だと決めつけたばかりである。これで実は岡田ではなかったとあっては、格好がつかない。
 栗原も疑問はあったかもしれない。だがひとまずは総理を殺したことにして、問題が生じたらそのときに、と考えていたのではないか。しかし、秘書官たちが遺体を見て「相違ありません」と言ったので、そうした疑問も吹き飛んでしまった。
 他の兵士たちも、女中部屋の押し入れに岡田が生存していたことに、気づいていたという証言を残している。ただ、見つけた当時、それが岡田だと気づいていたか、筆者は疑問である。後々それが総理だったと知って、そのとき気づいていたと思い込んだ可能性も捨てきれないだろう。
 実際のところ、女中部屋に老人が寝込んでいることは、将校たちも知っていた。他ならぬ池田俊彦少尉が、女中部屋に料理人の老人が寝込んでいるとの報告を聞き、その老人の姿を見ているのだ。だが池田は、遺体が総理だと思い、老人が岡田である可能性を考えもしなかった。池田は拘束され、移送されている途中で憲兵から岡田生存を聞き、「あの老人が総理だった」とようやく気付くのである。
 危うい瞬間としては、迫水の妻・万亀の件がある。迫水が宮中へ行ってから、官舎に迫水の従兄弟・丹生誠忠中尉から電話があったのだ。最初、丹生が蹶起部隊の一員だと気づかなかった万亀だったが、話しているうちに丹生が一員だと気づいた。万亀は「あのときお父さんを助け出してくださいと言ったらどうなっていたかと思うと、考えただけでぞっとする」と語っている。
 丹生が岡田の親類であることは、蹶起将校たちは知っていた。そのためか、丹生が蹶起を知らされたのは蹶起前日の2月25日である。岡田が親類というだけでなく、秘書官の迫水と大久保はそれぞれ従兄弟と伯父であり、秘密が漏れてはならぬと、前日まで知らせなかったのだろうと、丹生は証言している。
 前々回記したように、歩兵第3連隊から蹶起に参加した将校たちは、松尾伝蔵の顔を知ってはいたが、公邸には行っていない。蹶起将校たちは栗原隊の襲撃で岡田は死んだものと考えていた。「臨時兼任」でなく、「臨時代理」の辞令が下ったことにも、疑問を抱くことはなかった。その情報も、彼らにとっては馬耳東風だったかもしれないが。

新聞記者たち

「臨時代理」の辞令が下って、閣僚たちは特に疑問に思わなかったが、多くの識者は疑問に感じた。だが、そこから総理生存を推理する者はいなかった。一人、朝日新聞政治部長・野村秀雄は「この辞令は変だな」と呟いた。その呟きを聞き、記者の壁谷裕之は方々に連絡して、岡田の脱出後の潜伏先まで突き止めてしまった。潜伏先を見つけたとは、直感と偶然のようだが、彼は岡田の姿を目撃した。
 新聞社に戻った壁谷はこのスクープを野村に伝えたが、記事になるのは生存が公になる29日以後のことである。ちなみに斎藤内閣が倒れた後、誰に大命が降下するか新聞記者たちが特ダネを狙う中、誰も予想だにしてない岡田啓介への大命降下をスクープしたのも、壁谷だったという。
「白布の下の顔を見なくてよかった」と語るのは、中外商業新報(日本経済新聞の前身)の記者・和田日出吉である。軍部を批判した社説に憤慨した栗原たちが和田に詰め寄ったことが機縁で、和田は栗原たちと何度も社会情勢に関して話す機会を得た。二・二六事件と同時期に雑誌「日本評論」に掲載された「青年将校に物を訊く」という記事は、和田が聞き手となって栗原たち青年将校に質問したものである。
 事件発生直後、栗原から和田に電話が来た。それほどに和田は栗原に信用されていた。
 和田はただちに首相官邸に向かい、栗原から色々話を聞き、公邸内も見て回っている。官邸に一番乗りした記者は、和田である。和田はその仕事柄、岡田の顔をよく知っていた。遺体を前にして和田は黙祷を捧げたが、白布をめくることはなかった。

終わりに

 岡田貞寛は岡田の次男で、事件が起きた時は海軍経理学校に勤めていた。事件発生を受け、教官たちはただちに貞寛を、角筈の岡田私邸へ帰した。長男で海軍士官の貞外茂は外地に勤務していたため、葬儀の喪主となるのは貞寛である。
 実は貞寛は、26日中に姉の万亀から父の生存を聞いていた。迫水が不在の間に、万亀は公衆電話から貞寛に伝えていたのだ。だが、その後福田から、弔問客を岡田の友人たちから見繕ってくれと言われた加賀山が、「息子がいかんでどうする」と弔問客に貞寛を加えた。
 この時点で貞寛は、やはり見つかって殺されたのだろうか、と思ったという。福田は遺体を見てはならないと言っていたため、遺体を確認することも出来なかった。その背後で父の救出作戦が実行されているとは、貞寛は気づかなかった。
 帰宅後、貞寛は従兄弟の松尾寛二と共に棺桶の手配のために葬儀屋に行った。このときも遺体が父なのか叔父なのかわからず、棺桶の寸法もどちらも入るよう身長は5尺8寸(175cm)で注文していた。本来の岡田の身長は5尺4寸(163cm)、松尾の身長は5尺6寸(170cm)だった。
 納棺の際も貞寛は外で待たされたので、遺体を確認できていない。先述したように28日午前3時、迫水が親族にようやく岡田の生存と遺体が松尾であることを伝えた。
 将校たちの中で、「岡田の秘書はどうなった?」という声が上がらなかった理由も定かではない。恐らく、襲撃を担当する栗原と、丹生・歩三将校の間で情報共有がなされていなかったのだろうが、何より、丹生たちも栗原が岡田の顔を熟知していないとは考えていなかったのではないか。
 現代の我々ですら、なぜ標的の写真を持参しなかったのかという疑問を持つのだ。当時の人々、特に同志たちもまさか栗原が岡田の顔を熟知していないなどと、想像だにしなかったに違いない。秘書官が「相違ない」と断言した時点で、彼らにとって首相は過去の存在となった。
 岡田啓介が見つからなかったのは奇跡だったが、遺体の正体に気づいた者がいなかったとも思えない。記録に残っていない弔問客は大勢いたことだろう。白布をめくって死に顔を見た人物も、列記した以外にも居たはずだ。確かなことは当人たちが証言を残していない限りわからない。

救出までに総理生存を知った人々一覧

2月26日
  午前9時頃 迫水久常・福田耕・迫水万亀・横溝光暉
  午前 昭和天皇・湯浅倉平
  正午前後 大角岑生・小原直・内田信也
       青柳利之・篠田惣寿
  午後 森健太郎・小坂慶助・小倉倉一
  時刻不明 稲田周一

2月27日
  午前 岡田為次・佐藤正四郎
  午後 平出英夫・大久保利隆・鈴木英

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