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二・二六事件私的備忘録(十二)「大岸頼好と菅波三郎」

 大岸頼好と菅波三郎。
 数多の資料に頻出しながらも、この二人が何者なのか詳細に扱ったものは数少ない。今回は二人の簡単な来歴を紹介すると共に、筆者の観る二人について語っていきたい。

大岸頼好

 大岸頼好は陸軍士官学校第35期生である。34期生の西田税とは、広島幼年学校の頃、先輩後輩だったが、その頃は顔見知り程度だった。
 大岸たちの期は、大正デモクラシーの影響から士官学校も規律が緩くなり、マルクスや一般的な文学作品も生徒たちは読めるようになっていた。大岸はマルクスへ興味を示し、在校中に社会主義者の会合に出席したことから、士官学校では問題になった。だが、結局退校処分にはならなかった。学生ながらも、大岸は将来を嘱望されていたのだ。
 北一輝に接し、その思想に傾倒したのは、西田よりも大岸の方が先だった。最初の配属先、弘前歩兵第52連隊では、思想が穏健ではないと、将校団は少尉に任官すべきかどうか頭を悩ませた。しかし、性格は温厚で、兵隊にすら敬語を使っていた。
 52連隊が軍縮のあおりで廃止されると、大岸は青森歩兵第5連隊に転属し、そこで生涯の教え子であり同志である末松太平に出会った。
 自らの思想の遍歴に関して、大岸は「ぼくはマルクスから本居宣長になったよ」と語る。
 農村恐慌に見舞われた東北に配属されたこともあって、大岸の思想背景には農民の困窮があった。
 この点において、大岸は東北出身の将校たちから共感を得て、同志を増やしていた。相沢事件で軍務局長・永田鉄山を殺害した相沢三郎、二・二六事件に参画した対馬勝雄中尉など、東北出身者として農村の困窮を知る彼らにとって、大岸の語る国家革新の志は、農村を救済する唯一の策に思えた。
 陸軍中央官衙の一部幕僚が、後に十月事件と呼ばれるクーデター計画を練っていたのと時を同じくして、大岸は東京で陸・海・民の革新派同志の会合を開くことを決意する。
 東北にあって幕僚たちの動きを知った大岸が、革新派も一体感を強めるべきと考えたのだ。
 既に軍を退いていた西田の協力もあって、昭和6年8月、郷詩会が開かれた。参集したのは、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件にかかわる人々である。意識統一はできたが、それを行動に移すかについては、陸軍と海軍・血盟団側で認識の齟齬が生まれた。このまま直接行動に移そうと考える海軍・血盟団側に対し、陸軍は時期尚早と考えていた。翌年、彼らは単独で蹶起に至る。
 大岸は五・一五事件前に和歌山歩兵第61連隊に転属となった。郷詩会では「陸軍は大岸を中心に」と決められたが、大岸は活動の中心地である東京には行けず、東京の革新派は西田宅に集まるようになった。中央革新派は過激さを増していき、大岸のいなくなった東北革新派も焦燥に駆られていく。
 やがて大岸と西田の間で、北一輝の『日本改造法案大綱』の解釈を巡る対立が発生する。
 革新派将校は、直接行動後の国家像について、天皇親政と定めてはいるものの、具体的な政策は何も考えていなかった。漠然と北一輝が著した『改造法案』の実現をと考えてはいたものの、結局それ以上のものが彼らには考えられなかった。
 このまま『改造法案』を金科玉条にして良いのか。そうした疑問を持ったのが、他ならぬ北の薫陶を受けた大岸と菅波三郎だった。大岸は『皇国維新法案大綱』という独自の改造案を書いた。独自とは言っても、北や権藤成卿、遠藤友四郎の著作を参考にしたものである。
 だが東京革新派は西田を中心として、『改造法案』を絶対視していた。ここに大岸と西田の対立が発生する。間を取り持とうとした者が、更に西田と険悪になるなど、当事者が直に合わないまま事態は深刻化したが、この問題は有耶無耶のまま、霧散していく。対立は苛烈だったものの、決別には至らなかったのだ。
 しかも直後に、士官学校事件が起こり、村中孝次・磯部浅一らが拘束された。対立している場合ではなかった。
 昭和10年の正月、仙台で末松太平・相沢三郎(当時は福山第41連隊附)と会った大岸は、そこで相沢から帰路の上京の際、軍務局長・永田鉄山を斬ると告げられる。大岸は反対し、このとき相沢は翻意したものの、同年8月、ついに凶行に及んだ。
 昭和11年2月26日には二・二六事件が起こり、軍部における革新派将校の排除が始まった。
 事件に直接関与しなかった大岸は、裁かれなかったものの待命となり、軍を退いた。戦後には新興宗教(明言はされていないが恐らく璽光尊事件を起こした団体・璽宇の系統)に傾倒し、末松を始めとするかつて大岸に世話になった人々を困惑させている。
 大岸は病をおして布教に励んだ。末松が療養を勧めても、「これはみそぎだ」として聞かなかった。
 結局、それが大岸の命数を縮め、昭和27年、50歳でこの世を去った。最後まで最も近くにいたのは、古き同志である末松だった。

私見・大岸頼好

 大岸頼好・西田税・菅波三郎の三人の中で、最も北一輝に近しい気質の持ち主は、大岸頼好だった。
「マルクスから本居宣長になった」と当人が語るように、社会主義の思想にも通じた大岸は、青年将校の中でも切っての思想家だった。
 大岸の書いた『皇国維新法案大綱』は、戦後皇道派びいきの橋本徹馬によって紹介されたが、橋本は内容の過激さから統制派の手によるものと主張し、統制派批判の材料にした。原本を見たことのある末松がいくら「いやこれは大岸の書いたものだ」と言っても、信じない頑なさだった。
 青年将校たちの中で、『皇国維新法案大綱』のような建設案を考えたものは他にいない。大岸の愛弟子・末松は「自分は破壊消防夫であり、建設案を考えるなど邪道」という考えの持ち主で、そうしたことを考えるのは大岸に任せていた。
 青年将校運動の中心地は、東京である。もしも大岸が東京、もしくは関東を勤務地として運動の最前線に立っていれば、青年将校たちの様子は大きく変わっていただろう。大岸自身も、中央の動乱を間近に見て、思想にも変化が現れたかもしれない。
 だが、大岸に急進派を止められたとは思えない。
 郷詩会において、遥々弘前から上京してきた対馬勝雄少尉は、会合がただの顔合わせに終わって「このまま弘前に帰れというのですか」と不満だった。
 大岸と対馬に関しては、郷詩会以前にもひと悶着があった。当時仙台にいた大岸が青森で末松・対馬に会った時、対馬が「時期(蹶起)はいつになりますかね」と聞くと、大岸は「貴様ニセ物だ」と決めつけた。

「昔から時期を聞くものに本物はないといわれている。意気地がないから、つい時期を聞きたくなるのだ。時期が気になるくらいなら、いっそのこと止めたがいいよ」

 この件は和解したものの、結局対馬といい相沢といい、はやる心を押さえられなかった。
 大岸は理性的だ。それは二・二六事件前の革新派将校に欠けていたものだった。だが人間は感情で動くものだ。成し遂げたい何かを理論的に否定されたとき、理屈では理解できても完全には納得できない。納得させるには、理論とはまた別な話術が必要になる。
 末松太平の回顧から窺える大岸は、そうしたことが不得意、というより考えていないように思える。新興宗教に傾倒し、その儀式にかつての部下たちを付き合わせても、困惑気な人々を見向きもしなかった。
 思想家であってもまとめ役にはなれない。それが筆者の観る大岸頼好だ。

菅波三郎

 菅波三郎は熊本陸軍幼年学校時代、大蔵栄一・香田清貞など後に革新派同志となる面々と既に同期だった。陸軍士官学校に入ると、同期には村中孝次もいた。これだけ揃っていたものの、その頃から同志だったわけではない。
 菅波は幼年学校在学中、『陸軍の五大閥』という本を読んだ。これは陸軍内にある「閥」を紹介し、主に長州閥を批判したものだった。これを読んだ菅波は「幻滅」した。「輝かしい理想像が急に大トカゲか恐竜のような怪獣に見え出した」「胸をふさぐ悲しみと怒り」「皇軍とは一体何者ぞ!」と、その絶望ぶりは察するにあまりある。陸士予科時代には次兄が女性問題で悶死したこともあって、自らも「死」について思い悩み、自殺さえ考えるほど追い詰められた。
 軍人を志しているとはいえ、如何にも大正の青年らしい菅波がようやく救いを得たのは、北一輝の『日本改造法案大綱』を読んでからだ。『改造法案』を読み、「あたかも乾いた土が水を吸うように私の心境にしみ通った」菅波は、以降、北に傾倒し、北も理性的で知性あふれる菅波に期待した。陸士卒業間際のことである。
 陸士卒業後、菅波は鹿児島の歩兵第45連隊に赴任した。その間に西田や大岸とも会い、二人とも菅波の才幹にほれ込んだ。
 昭和4年、会津磐梯山の麓で、大岸頼好と海軍革新派の指導者・藤井斉の秘密会合が開かれた。この直後、藤井は九州に赴任したため、大岸は鹿児島の菅波に電報を打ち、藤井と会談せよと伝えた。
 こうして菅波は、藤井斉と血盟団の井上日召と出会うことになった。
 藤井と井上も、菅波の才幹が同志たちの中でも抜きん出ていることを知った。特に井上は、菅波をこのまま鹿児島に置くのは惜しいと、東京進出を策動する。
 一年半経った昭和6年7月、菅波は突然、東京の歩兵第3連隊転属を命じられた。
 連隊長によれば、これは「上官の思召し」だという。この場合の上官とは、第6師団長・荒木貞夫を指していた。井上は菅波の東京異動を、荒木に働きかけたのだ。
 一方で、別ルートからの働きかけもあった。陸軍省に勤務する菅波の兄・一郎が弟に陸軍大学校受験をすすめ、この話に45連隊の先輩で当時、侍従武官であった阿南惟幾が乗った。阿南も45連隊時代に菅波に陸大受験を勧めており、そこから陸軍省人事局補任課長・岡村寧次に菅波の東京転属を働きかけたのだ。
 当時の歩兵第3連隊の連隊長は山下奉文である。荒木と山下の繋がりといえば、いわゆる皇道派であり、単純に見れば菅波の歩三転属には何か遠大な思惑があるように思える。だが一介の中尉に荒木が何を期待するのか。そもそも菅波と荒木には、同じ師団にいるというだけで直接的繋がりはない。荒木にすれば、付き合いのある井上からの頼みを聞いただけだったのだろう。
 当時の陸軍中央では、永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次の主導による荒木の中央進出が計画されていた。菅波の転属と同時に、荒木も教育総監部本部長への転任が決まっていた。尉官級の人事を所管する人事局補任課長・岡村寧次は、その権限をフルに活用して同志を要所要職へ動かしていたが、菅波の転属は荒木からの頼み、阿南からの頼みが合わさった、「おまけ」であった感がある。
 ともあれ、菅波の歩三転属を働きかけた人々の思惑は、菅波の陸大受験にあった。だが、当の菅波は、そんなつもりはまったくなかった。多くの革新派将校がそうであったように、菅波もまた、東京に進出したことで、より活発な革新運動に万進するのだった
 歩三転属直後から、菅波は安藤輝三・野中四郎を同志に引き込んだ。菅波の転属と時を同じくして、郷詩会も開かれる。時期から考えても、大岸に革新派の全国的会合を開く決意をさせたのは、菅波の歩三転属が大きい。海軍の藤井・血盟団の井上にしても、待ちに待った菅波の東京進出によって、一挙に直接行動への期待が高まる。
 菅波は十月事件で発覚する橋本欣五郎一派のクーデター計画にも参加した。だが、全体的な顔合わせの会合において、橋本一派がクーデター後の内閣閣僚名簿を作り、更にはクーデター参加者に成功後は勲章を与えると聞くや、温厚で知られる菅波は激怒した。
『陸軍の五大閥』を読んで、派閥だらけの陸軍に「私兵化ではないか」と絶望した菅波には、閣僚を自派で埋め、利によって人を集める橋本一派を許せるはずもない。菅波は猛然と橋本一派に意見し、最後には主要メンバーの一人小原重孝大尉と組み打つことになった。
 橋本一派と革新派将校の関係は決裂とまで行かないまでも、考え方が全く違うことが明らかになった。
 十月事件で計画が発覚し、関係者が拘束される中、菅波も関与したことから、1週間の謹慎を命じられた。元より十月事件関係者に下された罰は軽いものだったが、この件で菅波は要注意人物と見られるようになった。12月に陸大にいた天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王が、歩三に戻ることになると、菅波を秩父宮の近くにおいてはおけない、転属させろという意見が出てきた。だが菅波は8月に転属したばかりで、すぐ異動させることも出来なかった。
 連隊長・山下奉文は、秩父宮に近づくなと、菅波に注意を与える事しか出来なかった。いっそ転属されても結構と応える菅波を、山下は慰留し、秩父宮に近づかないことを誓約させた。菅波は誓約通りに秩父宮に近づかなかった。しかし、秩父宮と親交のある安藤が、是非にと願い、菅波は秩父宮と話す機会を得、たびたび言葉を交わすようになった。
 血盟団事件、五・一五事件が起こった昭和7年の8月、菅波は満州の新京へ転属することになった。歩三転属から1年しか経っていない。明らかに東京にある革新派将校中、最も要注意人物である菅波を東京から遠ざけようという思惑があった。同時期、陸士予科区隊長であった村中孝次も、旭川歩兵第26連隊に転属させられている。
 以降菅波は、青年将校運動の中心から外れる。大陸へ出征した同志たちが必ず菅波を訪ねることはあっても、その意見・意向が運動に大きな影響を与えることはなかった。
 だが、後の二・二六事件に与えた影響は大きい。菅波が撒いた革新思想の種は歩三で芽吹き、二・二六事件蹶起部隊の主力を成すことになった。蹶起将校21名中、歩三将校は8名、蹶起部隊約1500名中約900名は歩三兵士、そして首魁となったのは菅波によって革新思想に目覚めた、安藤輝三と野中四郎である。
 菅波は二・二六事件発生時、鹿児島の45連隊にいて直接的に関与はしていなかったものの、特設軍法会議で裁かれ、禁錮5年を言い渡され、軍を去った。戦後は地元紙などに回顧を残しつつ、昭和60年にこの世を去った。その頃には、古くからの同志は末松太平ぐらいしかいなかった。

“危険な男”菅波三郎

 菅波三郎は、革新派青年将校の中でも、「最も危険な男」だった。
 ある種の運動には、常に怒り、過激な言葉で人々を煽る人物が必ずいる。デモや集会で場を盛り上げるには恰好の人材だが、そうした人物は万民受けしないため、運動の同志を増やし、定着させることは出来ない。
 それが出来るのは、理性的であり論理的思考で運動の意義を語れる人物だ。
 菅波三郎はそうした人材だった。
 菅波によって革新運動への道を進みだした新井勲は、初めての会合での菅波の様子をこう語っている。

 ふちなし眼鏡をかけた菅波中尉は、どちらかといえば頬がそげ口元のよくしまった、容儀端然として、軍人にはめずらしい物静かな人であった。(中略)菅波中尉は、社会革命家に見るような、激越なふうは少しもなかった。語るところも淡々として、人を煽動するような点もない。誰かの質問にこたえて話題を見出していくというような、話しぶりをする人である。とり澄ましてはいないが、貴公子然たる人、これがもっとも適切な中尉の形容であろう。
                新井勲『日本を震撼させた四日間』より

 この会合においても、菅波は新井たち見習士官を煽り立てることはせず、理路整然と答えるだけだった。特に、新井が「軍隊を勝手に動かしていいのか」という問いに対して菅波はこう答えた。

「もちろんわたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。しかし戦闘綱要には、独断専行ということが許されて、いや鼓吹されておるでしょう。命令を待たずしておこなっても、それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです」
                新井勲『日本を震撼させた四日間』より

 戦闘綱要によって憲法の統帥権を侵してよいのか、という問題はおいておくとして、菅波はそうしたロジックを組み立てられる男だった。基本的にこうした考えが出来るのは、青年将校たちの嫌う幕僚たちに多い。青年将校たちにはそのような知識がない。その分、菅波のように知恵ある者に判断を委ねようとする。末松太平が決断・知識面を大岸頼好に任せたように、歩三革新派将校たちは、蹶起のタイミング、決断の全てを菅波に頼った。
 菅波も大岸と同じで、下士官・兵士たちと繋がりを重んじていた。青年将校たちの究極的目標は、農村の困窮を救うことにあり、農村出の多い兵士たちこそ彼らが救うべき存在だったからだ。
 歩三転属直後、菅波が最初の同志に安藤輝三を選んだのは、彼が生活に困窮する元部下の就職斡旋に尽力していたことに感動したからだった。更に、寡黙ながら後輩・部下からの人望ある野中四郎を同志に引き込む。菅波の戦略は当たった。人望ある安藤・野中を通じて、新井勲・坂井直らが運動に加わり、歩三将校たちは二・二六事件蹶起将校の与党となった。また、菅波の薫陶ゆえか、歩三革新派は隊務に精励して兵士たちと心を通わせることを第一としていた。第1連隊の栗原安秀が、革新運動を優先するあまり隊務を疎かにしているのとは対照的である。しかも歩一の将校によれば、栗原は兵にも人気がなかった。
 菅波が影響を与えたのは二・二六事件関係者だけではない。陸士生徒・後藤映範は、45連隊の士官候補生だった時に菅波によって革新思想を啓かされ、陸士本科入学後、五・一五事件に参画した。
 また、要注意人物だったこともあり、あの永田鉄山すら菅波のことを知っていた。五・一五事件発生後、菅波を見た永田は「お前たちがやったのか」と問い詰めたのだ。
 わずか一年の間に、菅波は多くの人の期待と信望を集め、多くの人に警戒された。菅波が長く東京にいたならば、革新派はその勢力を更に広げ、東京革新派の指導者になっていたことは疑いようがない。その声望は西田を上回り、急進派の磯部浅一・栗原安秀などは出る幕もなかっただろう。
 おのれの存在が、周囲の警戒を煽っていることは菅波も自覚していた。東京を離れるにあたり、彼は同志たちに告げている。

「これからは、蹶起するかしないかは、私に頼らないでみなさん方で決定し、自分の目で判断しなければならない。どうか、くれぐれもよろしく頼みますよ」
                  芦沢紀之『秩父宮と二・二六』より

 菅波が東京において運動の第一線に戻ることを、軍上層部が許さないことを菅波は察していた。菅波の言葉は、歩三の「弟子たち」に自立を促すものだった。
 菅波を東京から遠ざけたのは、ある意味正しい。幕僚的発想の出来る革新派青年将校は、東京においておくのは、あまりに「危険」だった。

結び

 大岸と菅波は、二・二六事件に直接関与はしていないため、その存在が語られる機会は少ない。しかし、二・二六事件へ至る過程において、二人に触れないわけにはいかない。革新派の形成に二人は大きく関わっている。
 だが、東京を離れていた二人に、青年将校たちを主導することは出来なかった。
 大岸・菅波不在の東京革新派は、西田を中心にまとまったが、元軍人とはいえ民間人である西田に対し、現役将校たちは隔意があり、西田にも彼らは統制できなかった。
 二人にとって代われる人物は、将校たちの中にいなかった。菅波とは同期である村中孝次、大蔵栄一、香田清貞なども、大岸・菅波には及ばない。
 無論、二人が東京にいたからと言って、青年将校たちが穏健になったとは限らない。より扱いづらい集団となり、陸軍内にさらなる混乱を起こしていたこともあり得る。
 だが、二人がいなくとも、二・二六事件の蹶起には、二人の思想と影響が垣間見えてくる。関わっていなくとも、将校たちの思想の中には、大岸と菅波が確かに存在していた。
 仮に二人が蹶起を主導していれば、どのような形になっていたか、それは誰にもわからない。


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