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鍼が美しいと思うとき/日々の写真/#1

鍼灸師の東豪です。鍼の写真を撮るようになって、光量とか画角を素人なりに模索するのが楽しい。

ほぼ毎日朝の10時から夜の10時まで鍼療があり、なかなか師匠のようにはいかないなぁとか、もっとテンポ良く治っていかないかなぁとか、自分の技量の拡張を日々微力の気持で行っている。

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新大久保駅前の“東洋鍼灸治療院“の朝の風景


鍼灸師という職業

我々、鍼灸師という職業は、医療類似行為(いりょうるいじこうい)に位置づけられている。最近では、現代医学に代わる医療(代替医療)の中に、特にアメリカやヨーロッパにおいて積極的に取り入れられている。

まだまだ認知は低いが、れっきとした医療の一分野として、社会に受け入れられつつある。そんなわけで、我々鍼灸師は、現代医学や東洋医学の「専門書」に毎日のように触れている。あまり知られていないことだが、実は、鍼灸師とは「医療の専門職」である。

当たり前に、狭心症の患者が来たり、アトピーの患者が来たりする。手術と抜歯以外はなんでもやる、そんな仕事が鍼灸師である。

加えて、能や歌舞伎や落語といった、伝統芸能的な側面がある。ただ単に医療の専門職ではないところが、鍼灸の特徴でもある。


伝統芸能的な学問

伝統芸能的な側面を学ぶ。ここが本当に難しいところ。東洋医学には「古典」と呼ばれる、東洋医学の考え方の全てのオリジンが載っている、重要な書物がある。(宗教でいう聖典とされているもの)


我々が古典を学ぶ上での争点は、東洋医学をいかに「正しく踏襲」したり、いかに「真理を汲み取れるか」といったところにある。哲学のような、答えのハッキリしない深い問いに、おのおのが向き合って、人文科学的に記述する。極めて、根気と熱意の必要な取り組みである。


いいじゃないか。単純に、鍼が美しいと感じても

古典に向き合い、熟読することの重要さを理解しつつ。かつまた、現代科学でも未だ記述することができない「何か」があることを理解しつつ。


「正しく」とか「真理」の追求のみに没頭する。そこには、モノゴトの「本質」に触れたというある種の高揚感を感じる。それはそれで心地よくもあると共に、知らず知らずに「思考の型」にはまることがある。


東洋医学は医学です。だから「正しい東洋医学」は必要だし、古くから伝わる技術を継承したり、それを残したりする「伝統鍼灸」の側面は重要です。しかしながら今は、何か窮屈な、自分の中の「思考の型」が邪魔をしていて、自分の感性に蓋をしている、ように感じる。


漫然とした窮屈さは無くならないが、単純に、鍼のふと見せる美しさがそれを和らげるし、自然な足取りが戻るように思う。現代の医療制度、社会的立場、東洋哲学、伝統鍼灸。難しい言葉や向き合う課題はたくさんあるが、いいじゃないか。単純に、鍼が美しいと感じても。それが、僕を歩ませるなら。




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