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夜とは砂糖多めの玉子焼きである。

朝、目が覚めると初めにカーテンを開ける。私の部屋には遮光性の高い紺色のカーテンがかかっている。お気に入りだ。休日の朝、恋人と布団の中で体温を混ぜる時間が永遠に続けばいいのに。
何かを書く時は、中心となるなにかしらのメッセージが必要だ。私は目的のない文章を書くのがとても苦手である。論文の読みすぎだろうか。「明日」が嫌いで「昨日」に帰りたい私の、生きる所作を見せられたらと思う。

‪朝はいつも私たちを待っている。だから夜は存分に楽しんでいいと思う。次の日があるという制約とゆるしを、ほんのりと感じられるように、深夜の街の甘さを少しでも知って欲しい。なにか辛いことがあって、毎日が嫌で嫌で仕方がなくて消えてしまいたい人は、夜の風に身を任せればいい。

夜は優しい。何をしても次の朝が来てしまう。23時半、お風呂上がりの私は外を歩く。マンションの6階に住んでいる私が外出するのには、少し勇気がいる。鞄は持たない、コートも着ない。‪エレベーターに乗ると、香水の匂いがした。私の知らない匂いだ。知らないところで知らない人が生きてるんだろう。指先で物語を紡いで、たかが空気の振動で他人を泣かせたりしてるんだろう。人生は苦かったり酸っぱかったりするけれど、私は甘いほうが好きだ。努力をしたくない私に、世界は少し寒すぎる。‬ほんのりと暖かくなってきたこの季節は何かを考えるのには最適だ。

ポケットにはライターとアメスピ、財布とスマートフォンを入れて耳にはワイヤレスイヤホンを。オートロックの自動ドアを出る。近くの居酒屋から笑い声が聞こえる、出汁の匂いが夜風に運ばれて鼻をくすぐる。これだけで生きてる実感を得られる。世界に私しかいない気がするし、世界に私なんていない気もする。人生を客観視出来ないのは飴なのかムチなのかわからないが、わからなくていい。将来なんて知らないし、過去を振り返っても答えがあるわけじゃない。

今しか生きられない不器用な私は、静寂を求めて川沿いを歩く。対岸のマンションから漏れ出る光をみて、小さな物語がやはり世界に散らばってることを知る。人間がついぞ知れないことは、死である。なぜ自分が死んだことを書き残すことができないのか。死は平等であるというが、それは違う。平等であるためには、それを計り、客観性という現世ではありえない基準で裁かねばならない。誰も続きを知らない死を、誰が観測しうるのか。死とは圧倒的に私たちに与えられた主観的な権利である。

だからといってその権利を行使するには、まだあまりにも早い。絶景を見るため、人と愛し合うため、権力を得るため、そんなもののためにだけ生きないといけないわけじゃない。考えるために生きろ。この世界のありとあらゆることを身体で感じて、脳が焼ききれるほど考えて、それでゆっくり眠ればいい。私は右耳がきこえない。だから左耳で言葉を聞いて、両の目で見て、風の匂いを逃がさないようにして、肌で空気を感じる。私の知らない瞬間が私の人生にあるのは不愉快だ。全部私のものであって然るべきだ。

‪逃げちゃいけない時があるなんて、詭弁で欺瞞だ。人生とは死への一本道をひたすらに走ってる、その途中経過でなにがあろうともゴールへと向かってる。たまたま「やらない選択」をしただけだ。もしそれを逃げると呼ぶのならば、存分に逃げるべきだ。命とは燃やすためにあって、自我とは肯定されるためにあって、人生とは楽しむためにある。‬

だから、つらくてつらくてもう嫌で、消えてしまいたい時は甘くてふわふわの夜を泳げばいい。

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