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鑑賞という遊び。

「絵画をみる」と言う時に、どんな漢字をあてるだろうか。
「見る」「観る」「視る」……他にも沢山ある、そんなこと考えずとも生きていけるけれど、考えずにはいられない。

私は美術館が大好きだ。美術館に展示されてる絵も、それをみることも、あの静謐な空間も雰囲気も匂いも、全部好きだ。唐突に矛盾するようなことを言うが、あの声を出すのが憚られる空気が嫌いだ。何故お話しながら作品をみてはいけないのか。わたしは、知った顔で美術館を練り歩き、少し勉強した程度の知識、そうあくまで「知識」でしかないものを盾に得意げな顔で絵画を見て、会話に花を咲かせる人を注意する自称美術通の鼻面をへし折りたくて仕方がないのだ。
クラシックのコンサートやミュージカル、映画は演者が出した「音」が「邪魔されることなく聴かれるもの」と想定されているため、作品を受け取るためには沈黙が必要なのもうなずける。では絵画はどうか。絵画とは、「音」を表現媒体とはしていない。ここでひとつ、了解されたいのは、いわゆる現代美術はこの限りではないということだ。現代美術とそれまでの美術の線引きはどことするのか、そのお話はまた今度させて欲しい。兎にも角にも、音を表現媒体として用いていない作品に対して、黙ってみる必要があるのかというのが今回の論点だ。

静かに「本物の作品」をみたいなんて、かなり贅沢な思考だ。自分のものでもない何千万何億とする名画を「静かにみたい」というわがままを叩きつけられていることに、不快感が拭えない。自分で買って、部屋に飾ればいいのにと思うのは、私の性格が歪んでるからなのだろうか。

そもそも絵画とはどういう文脈でみられていたのか、またみられることを想定されていたのか。かなり昔にさかのぼってみると、やはり「宗教」に行き着く。神の威光をあらわすために教会に飾られたり、祈りの依代とするため祭壇画という形をとったり。文字が読めず聖書を紐解くことができない人々に、それでも神の話を伝えるために宗教画は大きく貢献した。そう、神父さんや牧師さんは絵を前に話していたのだ。ここからは少しお勉強の話になるので読み飛ばしてもらっても構わない。

ルネサンス期を迎え、人体を解剖するという禁忌に手を染めて神に疑問を持ちはじめた画家が次に選んだのは「物語画」である。この物語画について、詳しくはレオン・バッティスタ・アルベルティとかいう超絶なんでもできる天才の言説を引用すべきだろうが、ここでは「1枚、または複数枚からなる連作で、ドラマ性・物語が読み取れるように仕掛けをほどこされたもの」として簡単に理解して欲しい。つまり、文字情報がほとんどない1コマ漫画と思ってもらえればいい。
レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエッロやミケランジェロという希代の天才が亡くなってルネサンス期が終わると、わざと人体造形を歪ませるマニエリスム期になり、バロックへとうつり変わってゆく。印象派が台頭する直前まで、なんなら印象派が活躍する中でもアカデミアの人々たちは物語画を好んだ。当時、絵画作品を買えたのはお金のある貴族、教会、王宮だった。彼らは親しい友人を家に招きそこに描かれた物語がどんなものであるのか、謎解きに勤しんだ。

つまり、絵画作品とは元来、お話することを前提として作られているのである。視覚情報を叩きつけられて、「はいじゃあすごかったね」じゃあ作品を観たとは到底言えないのである。作品を観るためには確かに、謎解きの鍵となる知識が必要である。これこそ美術が教養の上に成り立っている所以である。しかしながら必要とされているのは、「何が描かれているか」という知識ではなく「これがこう描かれているから、この人は誰々で、こういう場面が描かれているんだろう」となる知識である。
例を挙げるならば、林檎が描かれていたらそれはアダムとエヴァが食した禁断の果実である。絵を見て「この絵はこういうタイトルだからアダムとエヴァだな」となるのではなく、「林檎が描かれているから、これは禁断の果実で、これはアダムとエヴァ関係かな」と推測できることが大切なのである。こういうのを図像学ではアトリビュートと言うけれども、話し出すと長くなるのでまた今度にしよう。
そういう知識を友人たちとだしあいながらみんなで何が描かれているかを想像するのも、また楽しいと思うのだ。

いつか、この国のどの美術館に言ってもみんながお話しながら謎解きできる日が来ればいいなぁと願ってやまない。

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