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フィルム越しに映らない



写真とは一瞬を永遠にする魔法の道具である。

みなさんは写真を見ることが、撮ることが、映ることが好きだろうか。私は見るのは大好き、撮るのは苦手、映ることはあんまり好きじゃない。
 写真を撮る人は、まさに撮ろうとするその瞬間を自分の目で見ることができない。この代償があまりにも大きいと感じるから、私は写真を撮るのが苦手だ。花火大会、あの爆音が鳴り響く中周りがiPhoneのバーストを連打してる光景に恐怖を覚えた。結局のところ、彼らは花火を見に来たのではなく、花火を見たという証拠を手に収めに来たのだ。
 とてもいい顔をした恋人を撮ったその瞬間、私は肉眼でその愛しい顔を見ることは永遠にできない。


私の趣味である、西洋絵画の話によかったら付き合って欲しい。事前の知識が無くても読んでもらえるように書いたので。言いたいことは、私は写真が得意ではないということ、目に見えるものは真実なのかという問いを捨てずに生きて欲しいということである。


 写真が開発されてから、絵画作品は肖像画の覇権を失った。当時、写真の持つ「真実性」は何よりも強かったのだ。人間が書き換えることのできない自然現象である光を用いて、そこに見えているものをそのまま切り取る。その暴力的ともいえる技法は、「正確さ」が求められる分野においては一躍トップに躍り出た。
では、写真に切り取れないものは何なのか。それは実体のないものである。現実世界に物質として存在し、光を反射しうるものは言ってしまえば、カメラによって支配下に置かれる。それとは反対にレンズ越しに映らないものは、どうがんばっても切り取ることができない。そこに活路を見出したのが印象派だといえる。彼らは目には映るけれども写真には映らないものを探し求めた。その結果、「光」を描くことにしたのだ。
 「光」という手には触れられないものをどうやって描いたのか。みなさんはアニメや漫画はみるだろうか。キャラクターの髪や目に入ったハイライト、あれが光だ。暗い部分に明るい色を一部ちりばめることで「光」が表現できる。原理だけで言えば同じ話である。専門用語で言えば「筆跡分割」、簡単に言うなら筆でドット風に明るい色を背景に置く。こうして彼らは光を手にし、写真から独立しようとしたのだ。もうすこし昔の話をさせて欲しい。
 「ルネサンス」という言葉をご存知だろうか。復興・再生と日本語で訳されるこの言葉は芸術分野でよく見られる。絵画や彫刻、建築で用いられる際は「古代ギリシア・ローマ」を復興するという意味になる。つまり、長らく古代彫刻の流れが途絶え、キリスト教のイコン画などが流布していた状態から脱出しようとしたのだ。イエス・キリストを描くときは人体の構造や筋肉の動きを気にする必要がなかった。もとめられるのは「写実性・真実性」ではなく「神秘性」だったのだ。ルネサンスはそこを破壊した。キリスト教では禁忌とされていた人体解剖を行い、体内の臓器や骨、筋肉の動きが明らかになった。医学や生物学が発展したのはもちろん、視覚芸術分野の発展も目をみはるものがある。色彩の種類も、人体の描き方も、建築の用途やデザインも、信条だって宗教観だって死生観だって変わっていった。かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが現れたとき、ルネサンスは最高の盛り上がりを見せる。この時期のことを「ハイ・ルネサンス」と呼ぶ。年代で言うと1450年頃~1527年である。先にも挙げたレオナルドやミケランジェロ、ラファエロによって、ルネサンスは極まり、完成する。これ以上はないというほど洗練されてしまうのだ。
さて、ルネサンス期も終わりを迎える頃、カメラの前身となるカメラオブスキュラが登場する。そのころにちょうど作品を制作していた芸術家たちは、どんな気持ちだったのだろうか。自分がもう少しはやく生まれていればと悔しがったに違いない。天才たちがルネサンスの「様式」を確立し、完成させてしまった。そのうえ、目に見えているままを切り出せる機械まで発明されてしまった。彼らは新たな道を模索した。「マニエリスム」と呼ばれるこの時期は、天才たちが過去の天才たちを越えるために苦心した、決して美しくはない捩れて歪んだ奮闘の嵐である。彼らは目に映ったものを絵画のなかでわざと歪ませる。凸面鏡に映った自分の肖像画やサイズ感や等身を歪ませた絵画を描く。「完成」された技術に歯向かうために敢えて真実性をかなぐり捨てた彼らの話はまたじっくりと、別の機会にしよう。
 ここまでの話で共通しているのは、カメラは真実を切り取るということである。事件の現場写真や難関登山の成功記録写真、人類初の月面着陸だって写真が用いられた。私は写真が苦手だ。
 ミレニアムを超えてはや20年、ついに写真の真実性が揺らぎ始めている。有体に言えば、加工だ。加工技術の進歩で、素人でも簡単に写真を上書きすることができるようになった。顔の輪郭をいじるのだって、目を大きく見せるのだって、映るはずのないモノを載せることもできる。加工が良いとか悪いとかの話ではない。誰だって画像として残るときには綺麗でいたい。そう、「映るときくらいは」の時点で写真が真実を切り取るという信頼は失墜しているのだ。
 どうかこの文章を読んでくれている酔狂な方が、何かを判断するときに何を持って真実とするのか、自分の目に映っていることが正しいのか、もう一度考えてくれたら幸いである。

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