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見えないということは真実ではないという証明にならない。

梅雨前の鬱屈とした空気は、それでいて季節を予告するというその一点のみで、許されうる。

日々ギター弾いて歌って、誰かの指から紡がれた言葉しか口にしないのも健康によくないと思ったので文章を書こうと思う。

17世紀のスペインなんて現代日本から遠く離れた場所の美術を研究していたはずなのに、今では現代のアートマーケットに、自分の足で赴いて生の声を聞いて、一緒に飲みながらあの作品はこうだ、この映画や音楽はここがいいとか語り合えるなんて、夢みたいだ。仕事をしてるとこれが夢ならばどれほどよかったでしょうと、心に住む米津玄師が顔を出してくることもあるけれど、それはそれで。2時とか3時に退勤することに違和感を覚えなくなってしまった。この1年で。


クラシック音楽に触れて、西洋のいわゆるオールドマスターたちを好んで観ていた自分は、価値判断の基準がどうしても昔に寄ってしまう。芸術とはコンテクストから逃れられない。それはそうだろう。作品が完成すると同時に評価されることはないのだ。ほんの少しでも完成と評価の間にラグがあれば、「文脈」という牢屋に囚われる。現代芸術を同時代人が評価する際は、「文脈」が先行するきらいがある。個人の感想だけれど。
つまり何が言いたいのかというと、1stインパクトでも3rdインパクトでもなんでもいいから、見たまま(敢えて観るではない)、聴いたままの美しさ表現に重きを置いてもいいのではないかと思う。そもそも昔(※曖昧さ回避)の作品だって文脈ありき、図像学なんてまさにそうと言われてしまえば反論は出来ないが。

これは楽器を弾いてる時に常々起こっていたことではあるが、音の流れに身を任せてもっと前に、もっと先にって指が思考より早く動く。練習段階では、今まさに裏板を響かせて鳴らそうとするその1音に感情とか思考とか知識とか調和とか色んなことを詰め込んで出して、それを繰り返すことで身体に叩き込むけれど、本番ではもう思考が音に溶ける。いつだって覚えてる景色は指揮者が棒を振り上げる瞬間と、終わったあとの観客席だけだ。脳が焼ききれるまで考える感覚は、知らないベッドで吸う煙草みたいに甘い。非日常が日常であった学生生活は、やっぱり音楽で出来ていた。


今は良くないことを良くないと指摘するよりも、自分が良いと思ったことを良いと言うほうが難しくなった気がする。自分の「良さ」があるように、他人にもその人の物差しによる「良さ」があるんだということに、目を向けていたい。人間関係のテクニックとして「否定から入る」は嫌われる。テクニックとか置いといて、そもそも一旦相手の物差しを自分の心に保留しろよとも思う。

他人の人生に影響を及ぼすことは、快楽だ。
それによって自分にかかる責任を負いきるには覚悟がいる。疲れた時には2週間くらい自動で休暇が取れるシステムになったら、世界はもうちょっと優しくなるのに。今は体調を崩すことすら、社会的責任を問われる。

夜に降った雨粒が、窓をつたっている様子を日曜日のベッドから眺めてる。どうか最後までこの文章を読んでくれた酔狂な方の月曜日が、肌にまとわりつく空気に塞がれず、穏やかでありますように。

7畳半のお城から愛をこめて。

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