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何かを目指さなくてもいいのかもしれない

時々足を運ぶ小さな珈琲店。

初めて伺った時、ミルクを使わなかったからか、2回目には「ミルク無しでしたよね」と聞かれ、その次からはやりとりすることなくミルク無しになった。
いつも同じ注文なので、こちらが注文する前に「○○でいいですか?」と聞いてくださる。
その他の会話は一切ない。

どこから来たのか、普段は何をしているのか、結婚しているとかいないとか、子どもがいるとかいないとか。
いいお天気ですね、という当たり障りのない会話すら、しない。
それが私にはとても気楽で、つい足を運ぶ。

もしかしたらマスターは、私が小豆書房という店をやっていることをご存知かもしれないけど、もうどっちでもよくて、私はここでは何者でもない。

自分が何者であるかを強く意識させられることのない世界は、とても自由だ。

アイデンティティ=他者との差異

たぶん人間は、ある時は何者かになりたいし、ある時は何者にもなりたくない。
ずっと「何者か」をやっていると、たまに「何者でもない」自分になりたくなる。
そういうときに、ここに来る。

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他者との差異により生み出される「自分らしさ」は、いわば相対的なもの。
では、内側から生まれる本当の(本当の、という言葉が適しているか分からないが)「自分」とは。

そんなことを考えていると、いつも、周囲の環境との境界があいまいになって、自分というものがなくなっていく感じがする。
人は本当は、とても自由な存在なのではないかと思えてくる。
(現実はいろんな制約があるけど。だから人は何者かになろうとするのだろうけど)

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「何者か」は、具体。
「何者でもない」は、抽象。

店のことを考えるとき、本を選ぶとき、何かメッセージを発するとき、できるだけ具体と抽象を行き来して考えるようにしている。
差別化しない、という、差別化。笑

具体的なものは分かりやすい。でも、隙がないとちょっと疲れる。
具体性は、気をつけないと、それ以外のものを排除してしまうおそれもある。

どんな人がやってる店か、こうやって少しはオープンにしつつも、属人的な店になりすぎないようにしたいなーと思う。


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