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「空間」を論じること - Blue Bottle Coffe ver.

とても気持ちのいい土曜日の朝10時過ぎです。
今日は朝から日本のお友達とZoomコールを予定していたので、朝7時でもあいているコロンビア大学近くのBlue Bottle Coffeeに来ました。前に来た時は音楽がガンガンだったので、うるさかったら場所を移そう。。と思っていたのですが、朝早かったし、たぶん店内に座っているお客さんが数人しかいないし、皆仕事をしている風だったこともあってかなくてか、私がビデオコールをしているのも見てかは分からないですが、2時間近くも音楽を流さないでいてくれて、お陰で音を気にせずゆっくりしっかりコールすることが出来ました。

ここのBlue Bottleはまだ2回目なのですが、非常に居心地がいい。

席数が多すぎず少なすぎず、前回も今日も、朝の時間は混まない。読書とか勉強とか、作業をしている人が多い。ミニマルで安定感がある木の椅子。背中に当たる太陽の光が気持ちいい。深呼吸をしたくなる。
ここで、日記を書くと、とても気持ちよく書ける。

大学院の最後のセメスターで取っていた「Borders &Boundaries」という授業がありました。Border Studies (国境研究)という分野があること自体、私は知らなかったのですが、授業のコンテンツも、教授の人柄や教え方も本当に素晴らしく、人生の中でもとてもとても大切で、私の人生観、世界観を大きく変えた授業でした。

その授業の中で、「空間」は重要視するべきか、という一つの論点がありました。移動手段が発展し、ビジネスがグローバル化されるにつれ、「国境を越えるという特権」が与えられた人にとっては、物理的に自分が生まれ落ちた「国」の「領土」を越えることができる。また、インターネットが普及し、トランスナショナルなオンラインプラットフォームが発展したため、物理的に移動をしなくても、トランスナショナルな体験が出来るようになっている。その中で、国や地域といった一定の「空間」を議論することは、学問的な対象として妥当かどうか。誰がどこにいるかは、重要ではなくなるのではないか、と。

さらに、固定だと思われがちな空間やそれを作る境界線は、実は常に作られ、壊され、形を変え続けている。国境がいい例で、あたかもそれが当たり前に自然に存在しているようですが、歴史の比較的新しい時代に人工的に作られたものであるし、政治や経済、感情というごく不確実で流動的なものに影響を受けてその姿や数は変化し続けている。

境界線やそれが形作る空間よりも、別の有意の研究対象があるのではないか。

個人的には、それでも空間に視点を向けることは重要だし、利点があると考えます。

私たちが、自分の身体を置く物理的空間、意識を置くオンライン等を含むバーチャル(非物質的)空間のどちらも、その影響力は常に私たちの認知レベルをはるかに越えています。もちろん、空間と空間の間に(複数次元的意味合いでの)明確な線が存在しないことがほとんどで、一つの空間を議論することは、その時点で「空間」を定義する「境界線」を前提とします。それは、その間にある無限の多様性を隠すことにもなりえるというリスクを孕みます。
言葉が、「それが意味するもの」と「それ以外」に世界を二分してしまい、その間の曖昧さに存在する多様性を無視することと似て。

それでも、その「空間」を知ろうとすることによって、まずはその単位で、その中に生きる個体が受ける「影響」の正体を明らかにすることができる。空間を研究し、議論することによって、個人が、個体として、ある意味その空間から自らを切り離し、主体性を離さない(もしくは多くの場合、取り戻す)ことに近付けるのではないかと思います。

自分達が思っている以上に環境から影響を受けているということが、まだまだ認識されていないからこそ、測り知れない影響を少しでも測り知るための手がかりとして、空間を対象とする視点は、アクセス可能且つ効率的で、メソッドとして利点を感じます。他の多くの研究やメソッド同様、「意図」が非常に重要であり、このメソッドに付随する多様性を隠すという限界性やリスクを見失わないことも重要なのは言うまでもありませんが。

私が今いるBlue Bottleという空間に話を戻すと、とても心地よい空間ですが、曜日や時間帯、天気、その時のスタッフのシフト、その時に空間を共有する他の客、誰と訪れるか、どんな感情や体調の時に訪れるか、等によって、私が受ける経験だけでもとても多様です。天気やスタッフの気分、もしかすると隣の店で犯罪が起こったり、、といった、空間の外での経験が持ち込まれる時、どこまでがブルーボトルの空間かと問われると、複数、もしくは無数の定義が生まれるだろうと思います。

それでもやはり、このブルーボトルというブランドやそのコーヒーを軸に集まる人達を収容するこの空間は、その空間としての力が確実にある。居心地やクリーンさを維持するためには構成するすべての人の(多くの場合無意識の)不断の努力が必要だし、それを集合的に可能にする空間の力。不確実で流動的な中にある、空間としての主体性とでもいいましょうか。

ブルーボトルに関してはそれが私個人に好ましい力や努力であることも相まって、ここまで書いて、なんか、この空間に健気さや美しさすら感じてしまう。

ということに気付くのも、空間としての単位に目を向ければこそ。

という感じで、本日も、ダイナミクス、不確実性、偶発性に満ちた一日を、味わって、まいりたく思います!

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