HUGっと!プリキュアのアンリ君についての考察

2019年に「アンリくんアンソロ」に投稿した考察を掲載します


 2018年にスタートした、HUGっと!プリキュア(以下はぐプリと略)は今までのプリキュアシリーズではあまり無かった反応も含め、文字通り賛否両論を巻き起こした作品だった。アニメ系のブログやネット媒体以外でも、話題として取り上げられることが多々あったように思う。例えば普段は政治や社会問題などの硬派な記事が多いハフィントン・ポストにて「プリキュアが「男の子だってお姫様になれる!」と叫んだ。はぐプリ19話が伝えた、すごいこと」(18年06月10日)と取り上げられるなど、はぐプリの持つ多様性を指摘する記事が多かった印象だ。前述した記事のタイトルは、本稿を寄稿する「アンリくんアンソロ」の中心キャラ、若宮アンリ(以下アンリ)のセリフだ。
 (プリキュア15周年やオールスターの映画(ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ)に言及する記事もよく目にしたが、本稿の趣旨とははずれるので割愛する)
 それに対し、具体的にデータを取ったわけではないが、「プリキュアで社会問題をやるのはちょっと…」みたいな否定的反応や、同性カップルを指し(アンリ&正人、ルールー&えみる)「公式が大きなお友達に媚びるのはちょっと…」のような反応もあった。
 本稿は「アンリ」というキャラがプリキュアシリーズの中で隠し球でも、イレギュラーな存在でもなく、「プリキュア」という文脈の中に生きるキャラというのを述べていきたいと思う。

 プリキュアが内在する社会性というのは、初代プリキュアの立ち上げに関わった鷲尾プロデューサーが様々なインタビューで「女の子だって暴れたい」と述べているように、「女の子はおしとやか(という作品が好き)」という固定概念の破壊であった。戦う美少女ものはセーラームーンを含め、過去にヒット作がいくつかあるが、「殴る」「蹴る」のアクションを多く取り入れたのは、いわゆる「女児アニメ」ではかなりインパクトがあった。これはあえて指摘するまでもなく、「ものすごく社会的」な試みだ。
 そして、その固定概念を破る試みは、以降のプリキュアシリーズでも根底をなすテーマとなっていると推測する。
 2代目となる、ふたりはプリキュア SplashStar(以下S☆S)こそ、初代プリキュアのテイストを多少受け継いだ作品だが、それでも、世界観は大きく変わり、ヒット作の続編と考えるには冒険的な要素を多分に含んでいる。
 初代から続く鷲尾プロデューサー時代のYes!プリキュア5(以下5)、Yes!プリキュア5GoGo!(以下GoGo)までを一区切りとし、以降のフレッシュプリキュア!(以下フレプリ)からはさらにシリーズ毎の作品カラーやテーマが前作からガラッと変るようになっている。5では、メンバーが何かを食べるシーンが多くある(おそらく、意図的であろう)。その一方で、飢えている敵役をだし対比としている。この対比もかなり社会的な寓話であろう。
 フレプリでは、敵組織の造形が細かく、管理社会によるデストピアを見事にプリキュアという枠に収めている。
 ハートキャッチプリキュア!(以下ハトプリ)は、心のネガティブな部分が「怪人化」するという基本設定から作り出された各話から様々な社会性が見え隠れする。
 スイートプリキュア♪(以下スイプリ)では、強い心から「ハートのト音記号」が生まれるとし、「誰でもプリキュアになれる」というシリーズを跨いだ伏線が込められたと推測する。スマイルプリキュア!(以下スマプリ)では社会性のメッセージが薄れるように感じられる物の、現実の方へ目を移せば、スマプリの一つ前であるスイプリ放映中の11年3月11日に東日本大震災が発生している。震災以後に作られたプリキュアとしては、個々のキャラを立てて、一種のほのぼのさを中心に持って来るのは十二分に社会的であろう。
 ドキドキ!プリキュア(以下ドキプリ)では、個々の自己中心性が「ジコチュー」を生み出すという点とそれを象徴するレジーナというキャラクターもやはり社会的であろう。
 ハピネスチャージプリキュア!(以下ハピプリ)では、ひめの悔恨と次第にそれを赦していくいおなという構図一つとっても示唆にあふれている。
 Go!プリンセスプリキュア(以下姫プリ)では、「プリンセスを夢みる」事と将来の職業を含め社会との関わりを示したと考える。
 魔法つかいプリキュア!(以下まほプリ)では、それまでのプリキュアシリーズでは守られる対象である事が多かった「あちら側の世界」を「魔法界」、こちら側の世界を「ナシマホウ界」とし、二つの世界を同等に扱った異文化交流とも受け取れる。
 キラキラ☆プリキュアアラモード(以下プリアラ)では、いちかの母が「国境なき医師団」を匂わす仕事ぶりで、これもアニメ系以外のネット媒体に取り上げられている。また、終盤のいわゆる「闇落ち回」にて、それまでは個性豊かな服装だったキラパティの面々が灰色に統一された制服のような衣装に替わるのも印象に強く残っている。
 そしてHUGっと!プリキュアである。
 駆け足に各シリーズの社会的ととられる部分の一部を挙げてみた。このように「プリキュア」というのは根底に社会性を帯びている物といえる。
 
 繰り返しになるが、若宮アンリというキャラクターは数多くあるプリキュアシリーズにおいてユニーク性が強いキャラクターではあるが、決して突然変異のように突然現れたわけではない。キャラを毎年のように一新したプリキュアシリーズは、レギュラー的なプリキュアだけでも50人以上いる現状である(何人いるか論争はやめよう…)。さらに、キャラクター性を掘り下げられた副主人公ともいえるキャラも脇役も多く登場する。その中でアンリというユニセックスともジェンダーフリーともいえる要素を前面に押し出したキャラクター性は確かに目新しい衝撃があったが、しかし、そこに至るまでに「流れ」があると筆者は考える。
 まずは初代のなぎさである。なぎさは男勝りでちょっとがさつな女の子という表層があるが、恋愛話に代表されるように、内面はものすごく「乙女」である。女性らしさがあふれるほのかとの対比もある。
 5のりんは多少ボーイッシュの文脈で語ることができるキャラクターだが、女の子としての“ボーイッシュ”であろう。
 性別のゆらぎを多少感じさせたのは、ハトプリのいつきである。いわゆる男装の麗人で、「一目見た女の子が(異性として)惚れるほど」という描写が多くある。しかしながら、その男装は環境的な抑圧といつき自身の思い込みから生じたもので、いつきの内面としては誰よりもステレオタイプ的な“女の子”であった。
 男装の麗人を出したというのは、ハトプリの時点では、それなりに思い切ったキャラクター配置であっただろう。
 多少余談的になるが、ハトプリには脇役の番ケンジの妄想で番自身が「キュアファイア」になるという話もある。
 まほプリのモフルンは劇場版にてキュアモフルンへと変身するが、妖精枠(ぬいぐるみ)で性別はない。絵の要素としては女の子の要素を多く含んでいる(後ろ髪のボリューム、前髪のうちはね、ズボンとはいえかぼちゃパンツ風ボトムなど)が、「男の子かもしれない」と言われても強く違和感を感じることがないデザインになっている。
 プリアラのあきらは、ユニセックスというよりは、男物を自然体で着こなす女の子だ。「男物を自然体で着こなす」というのは、プリキュアにおいて一つの大きなポイントになりうると考える。男に扮装する男装ではなく、自然体での男物ファッションなのだ。
 そして、はぐプリのアンリへと繋がっていく。
 
 アンリは男でありながら、女物の衣服を自然体で着こなす。それは女装ではない。そういう点では「男の娘」ともすこし違う文脈であろう。「男である」「女である」という二元的な性別では捉えきることが出来ない。それはファッションだけでなく内面も多面的に描かれている。冒頭で紹介した記事タイトルにもなった「男の子だってお姫様になれる!」もそれだ。メタ的視点でいえば、プリキュアシリーズの多くでは、基本的に物語の定型的な「ヒーロー」と「ヒロイン」の性別が入れ替わる。暗黙のうちに男性が「ヒロインポジション」に割り振られることが多かったプリキュアシリーズで、暗黙ではなく明示的に「男でもお姫様」と示したのだ。筆者は劇場版「プリキュアオールスターズNewStage」のキャッチコピー「女の子は誰でもプリキュアになれる」に多少なりとも残念さを感じていた。女児達を励ます力強い言葉とは理解していたものの。その残念な感覚は前述のアンリのセリフで打ち消された。「ジェンダーロール」等の言葉を使わなくても、アニメという形でかみ砕いて表現したのだ。
 当然というべきか、それらの多様性を押し出したは描写は終盤に登場する「キュアアンフィニ」に繋がっていく。
 この部分だけ抜き出せば「アンリ」はプリキュアシリーズにおいて異質ともとれるかもしれない。しかし、「男の子だってお姫様になれる」は「女の子だってヒーロー(王子様)になれる」であり、それは「女の子だって暴れたい」に繋がっていく。
 「女の子だって暴れたい」と一種の固定概念を壊したプリキュアは、シリーズを重ねるうちに「強いプリキュア」という固定概念になっていった。しかもそれは「女の子は誰でもプリキュアになれる」と組み合わされていた。ここ(はぐプリ)で、「男の子もプリキュアになれる」さらにいえば、性別の要件をなくし「誰でもプリキュア」として、もう一度、固定概念の破壊が試みられている。
 はぐプリが突出して“とがって”いたのではなく、プリキュアは初代から“どがって”いたのだ。いろんな意味で2019年のプリキュアは「HUGっと!プリキュア」なのだ。
 
 また、多様性の物語として、「恋人」という明言は無かったものの、アンリと正人、ルールーとえみるという組合せは本編を見ていても「友達」以上であり「恋人」と表現しても違和感ないほどの描写がある。ガチガチの保守的な正人がアンリに惹かれていくのは物語としても良さがあったが、それ以上に「正人はアンリが好き」というある意味単純明快な表現は、対象を幼児としてもプラスはあれどマイナスはないと考える。「男だから」「女だから」というのを特に要素としてこだわらないという事であろう。
 同性愛については感覚的な面や、理屈の面などで嫌悪感を抱く人も多くいるであろう。しかし、その嫌悪感もひっくるめたのが多様性であろう。ガチガチの保守的な正人にアンリは「僕は君のために僕を変えることはできない。誰に何を言われたって構わない。僕の人生は僕のものだ。僕は僕の心を大切にする。」という。それに「だから、君も君の心をもっと、愛して」と付け加える。「男/女」「マイノリティ/マジョリティー」「善/悪」などを二元的に語ることなく、多くを受け入れる多様性の物語を1年通して丁寧に描写したともいえる(もちろんはぐプリが表現したのはそれだけではない)。
 筆者はそのHUGっと!プリキュアと、作内の多様性のアイコン的な若宮アンリに敬愛を感じる。そして、最大限のエールを送りたい。
 
 最後に蛇足的な補足だが、「プリキュアは社会的」と書いたが、ほとんどのアニメ、というか、ほとんどの創作物は「社会的である」。例えばほのぼのとした日常系作品でも、「それが日常である」というのを受け取れる社会が前提となる。もしくは「うらやましい日常」として受け取ったとしても、現実社会との対比となり社会的である。ほとんどの創作物が「社会的」だが、そこには当然の如く濃淡がある。プリキュアというシリーズは、ちょくちょく「濃い面」を見せてくる作品だと捉えている。

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