リーディングパーティー日記

7・13、大阪庄内市の犬と街灯というギャラリー兼本屋さんで行われたオカワダアキナさん編集の『任意の五』リーディングパーティーに参加した。参加できるか謎だったので予約をためらっていたら、いのりくんが気を利かしてして犬街さんに連絡してくれていた。究極の「行けたら行く」みたいな約束をとりつけてでも普通に関東の人々が庄内に集うのは嬉しかったので逆に土曜は絶対空ける。と思って平日の仕事の方をしれっと休んだ。休みが体力の温存に寄与したのか、とりあえず参加できることができてよかった。オカワダさんは九州から大阪、そして東京の予定を三日くらいでこなそうとしていてやばだった。
 いのりくんが551食べたいと言っていたので難波で待ち合わせした。先にケーキを買って列に並ぶ。韓国アイドルのツアーがあるのか、東京の訛りが聞こえてくる。アイドルの話、推し活の話、難波は人が多くてビビった。普段あまり来ることがないから方角がよくわからない。いのりくんが方角がわかるタイプの遅刻魔でよかったなぁと思う。同じタイプだったらもっと行程が崩壊していた。
 いのりくんと初めて会ったのはもうすこし昔のことで、そのころはまだあどけなさの残る青年だった。働き始めて社会人の顔になっていて、お互いの生存を祝った。生きているといいことあるねと思う。初対面の時は私の顔色がやばかったらしく、そういえばあの頃は不調が極まっていた気がする。
 というか結婚してからずっと体調は悪く、このあいだ久々に若いころの写真を見返していたのだが夫がにこにこへらへらしている時期は私の顔色が病人みたい。単にわたしの主観かと思っていたが、人から見ても同じなんだなぁと感慨深かった。
 551は関西人にとってはソウルフードだけど他地域の人から見るとどうだろうな。甘いしくどいような気もする。いのりくんの口に合ったらいいなと思った。同じくソウルフードの風月堂ゴーフルをプレゼントしたが、これももらってうれしいプレゼントなのか、そうでないのかがいまいち判然としない。自分の育った地域のことを客観視することは難しい。

 犬と街灯はいつも見過ごしそうになってしまう。毎回近くの路地で迷いそうになる。それくらいひっそりしている、でもこのあたりの物価はインバウンドに沸く関西で比較的安定していて懐かしい関西の感じ。いいところだと思う。近くの喫茶店に目星をつけているので本屋さんのあとにバナナパフェという休日の目標を達成したい。
 というか551を出た時点で少し遅刻の予感を感じていたが、いのりくんの導きにより奇跡のエクストリーム乗り換えを達成して無事についた。モーセのごとくに人ごみを切り拓いてくれたのでまじでありがたかった。きしなにぶつかりおじさんに弾き飛ばされた身としては、かなり、本気でありがたかった。そんなこんなで犬と街灯に到着したが、押し気味についたはずなのに登壇者が全員揃っていなかった。これは……! 波乱の予感!
 兼町さんからセーファースペース宣言があったが、こういうときいつも自分が危険人物である可能性から意識をそらすことができなくて、無言になる。
 来ている人から朗読が始まり兼町ワニ太さんが自作の「動物園日誌」からいくつかを読んだ、「動物園日誌」はすごくよくて名作なんだけど、そもそも外交の武器として利用されているパンダがあまり子を成さず、それは動物園職員やわれわれ国民にとっては「あまり働かないパンダ」だということだったのだが、パンダにはそもそも想いパンダがおり、、、ということが読み進めることで明らかになってゆく構造なのだが、感極まって鼻水がでてきてやばかった。録音されているということで、鼻をかむわけにもいかず、てぬぐいで鼻水をぬぐった。
 すると今度はトイピアノと魚肉ソーセージを手にした暴力と破滅の運び手さんが「悪魔の抱擁」を読み始めた。身振りや効果音を交えた現代アートみたいな朗読だった。幼いころにちんちん!うんち!おしっこ!みたいな鳴き声を女の子だからと咎められて育ったせいか、今でも私の男性性のある部分はそういう幼さに固執しており、ひとが「放送できないひどく幼稚な四文字の言葉」を連呼するたびにある種のカタルシスが生じ熱っぽい笑い声をあげてしまう。
 運び手さんが「ナイン!」と読み上げたときに脳裏に浮かんだのレディ・ガガ、Art Popから「Venus」のアウトロだった。(Fly highのあとにナイン/ゼットっていうリフレインがあった気がするんですがきのせいですか?)

 運び手さんってギャルだし、ガガなんじゃない? なんとなく運び手さんの作品に惹かれる理由が自分のなかで腑に落ちた気がした。真面目で頭がよくてお茶目で、パフォーマンスがファビュラスで、あとずっと下ネタ連呼してる。魚肉ソーセージで鍵盤を殴打する運び手さんの姿にわたしは「普段あんなに控えめでシャイな人なのに……」というギャップ萌えを感じずにはいられなかった。はまりすぎて手さんの登場するイベントに顔を出しすぎているんですが大丈夫ですか? そろそろストーキングで通報されるのではないかと内心ビビっている。

 そのあと中継がありかぐやブックスさんとの双方向のやりとりなどあり、作者の人々が互いの感想を言い合うコーナーがあったりした。わたしはその間一生懸命図書館で借りてきた「五人の男」を読もうとしていた。書く女がいちいち気に入らねぇな……わたしが避けてきたタイプの日本人作家だ。でもこういう書き方に影響を受けた後世の作家の影響をまたわたしも受けてきたなと思う。打ち倒すべき幼稚さだなぁと心に留めておくことにした。旧い新潮文庫の版を借りたのだが、最後に山室静の解説が載っていて、そこでわたしの言いたいことがほとんど言い尽くされていたため、留飲を下げて短編集はまだ全部読めていない。

 庄野の「蟹」に出てくるらしいクイズのこたえはわたしもわからなくて、オカワダさんの「ホーン・ホーン・ホーン」を読みながらわからないわねと首をひねった。角をぬかれる男のはなし、以前に近いのを読んだ気もしてそういえばあれのタイトルは何だったかな。オスには角があるけどメスにはない。闘鶏の話も以前のペーパーで読んだなと思う。鶏は角じゃないんだね。鶏冠なんだよね。くちばしがあるからそれ以上硬い武器を持たなくてもよかったのか。爪、前足、蹄。ティラノサウルスに一番近い生き物は鶏なのだという。太古の記憶がよみがえるからかつての捕食者を食べるときは美味しいんだよと以前夫が言っていた。そのとき捕食者が指していたのはイカだったが、遺伝子解析の進んだ今では鶏がそこに収まってもおかしくはない。角があったら? そこを通して自分が拡張されるような感覚を持つのか? わたしも? たとえば自分のディックに愛称をつけるような感じで? なにか大きな動物の名前を? ヘラジカとかヌーとか恐竜とか?
 でもどうかんがえても、ディックの質感に近いのは鶏冠だよなと思った。角が抜けるように男性器が腐り落ちる話を最近読んだ気がするが思い出せない。悪い夢だったのかもしれない。

実は任意の五を全部読めてなくて、当日会場で慌ててオカワダさんと瀬戸さんの話を読んだ。悪魔の抱擁のインパクトがすごくてそこでまた止まってしまったのだ。人の話を聞きながらだと中身が全然まとまらなくて、入ってこない。だからいま、家で読み返している。深澤さんのもまだ読めてない。「五人の男」既読で読んだほうがいいのを書きそうな人のはあとにまわしていた。
 瀬戸千歳さんの「伯父」を読みかけたときにうわ、と思って、それは最近見た夢を思い出したからだ。私は車に乗れないし免許もないのだが、全然知らない男の子たちふたりを目的地に送り届けるために夢の中のわたしはハンドルを握っていて、拾った男の子たちのことを起きてから「あれは自分自身だったのかもしれない」と思った。
 瀬戸さんのはちゃんとオマージュ元をオマージュしていてすごいなと思った。庄野潤三にむかついたところが回収された気がして、瀬戸さんがアンソロの大トリでよかったなぁと思ったのだった。

 宮月中さんの五人と鳥のところで、さくらももこを勧めてくれたきり音信不通のともだちの描写があって、さくらももこを人に教えたくなる人間はだいぶん限界のところにいただろうなと感じたのだが、他の人のコメントを聞いているとその感想はあまり一般的ではなかったかもなと思った。ふたりの間の微妙な雰囲気がいいなと思った。なんだかんだ言っても結局私は女性ジェンダーの側から物事をみており、男性たちのメンツやプライドについての知識や体感が少ないのだろうと改めて思った。そのこととアメージンググレース鳥の繊細さが(本当は結びつけてはいけないのかもしれないが)重なり、彼らの本当の声を聴くときは決して彼らを驚かせたり、触れたり、邪魔をしてはいけないのだと思った。

 最後に「うつわ日記」の感想を書くことにしたのはためらいやとまどいがあったからかもしれない。最後までこの記事を読むような人にだけ伝えたいことだったからかもしれないし、こんなのはポーズで私は単に自分の繊細さや感性の豊かさをアピールしたいだけなのかもしれなかった。でもこういう前置きがすでに失礼な気がする。
 安堂ホセ氏のデビュー作を読んだときも思ったことだが、ゲイ男性の感性のなかには盗撮に対する警戒やおそれがあって、これらはマチアプで異性を「食い散らかす」異性愛者の男性にはみられない特徴だ。つまり性的客体に(本人の意志や同意なく)なりうることへの嫌悪と恐怖がある。こういう恐怖を「女性性」という言葉でラベリングする人間に私は強い嫌悪を抱くのだが、同時に、たとえばこうやって『任意の五』の感想を人の目につくとろこに書き散らすときに「ゲイネス」や「クィアネス」というラベルを使うかどうかには非常に大きな葛藤を抱いている。その言葉に安堵を覚える人、共感を覚えて集まってくる人もいるかもしれないし、それはよいことのような気もする。けれどもその一方でそれらのラベルが、もっというと気軽に交わされる「連帯」の言葉に非常に恐怖を覚えていることも確かだ。無視してはいけないものを無視して踏みにじっているような気持になる。「善意」は万能の免罪符ではない。少なくとも私には踏みにじられたくない部位がある。それを守るために最近は沈黙を選ぶことが多い。

 前置きはこのへんにしてうつわ日記の感想に移ろうと思う。リーディングパーティーの会話の中で判明したことだが。冒頭の文章は最近の日記なのだという。時系列に違和感を感じていたため安堵した。若いころの焦燥感を思い出して、共感した。”似合わない人を好きになってジタバタしてたのか?”という一文にわかりを感じた。開けないうつわを買うという行為に、うつわになりたい、包み込むようなスペースが自分の中にほしい、という欲望や希望を感じる。これは書き手と自身を重ね合わせることによって発生した感性で、読みの筋としてあまりよいものとは言えない自覚がある。私にも自身がなりたいものに手を出していた時期があってそれは器ではなかったが、読まない本とか思想書だった。幸せになることが恐ろしく受け入れがたいとき、自身が陥る幸福でない状態は完全な終わりではないところに「終わらなさ」という希望がある。

 家に帰って家族と話をした。りくろーおじさんのチーズケーキの話をするとき夫はいつも「こんなに人気になる前の日持ちのしないやわらかいりくろーおじさんのチーズケーキ」の話をしてそのころのほうがもっと美味しかったと私に言う。本屋さんのイベントに参加していたよというと「そこでは(あなたは)先生と呼ばれるの?」「仲間内で集まってせいぜい傷の舐めあいをすればいいじゃない」「そうやって勘違いしていればいい」というようなことを言っていたが、わたしがトイレにスマホを落としたことで急に世話焼きおばさんのペルソナになり、いつのまにか新しいSIMチップを注文していて私が寝ている間に家にある余った端末を設定し直して夜を徹していたようだった。ああ、うるわしきわたしのアメージンググレース鳥。

(追記)
 完全に星野いのり『月の壜』の感想を忘れていた、登壇した人の感想には一通り触れようとかきはじめたはずだったのに。句集を編集しているとご本人がおっしゃっていて、俳句の編纂ってかなり編集能力を問われそうだなと思った。季語のグレーな転用(活用して名詞とまとめることで現代語っぽく使う)ことなどの説明に、そんな技術が、と思う。祖父の句も「不倫」という章におさめられていると不穏さが漂ってきて、運び手さんの天狗の句の連想にそういうことだったのか!と解題されたような気持になる。「先生」と題された一連の句も、幼い一方的な恋心として理解していたのだが、みんなの感想を聞いてたら不穏にも思えてきてしまったな! こういうのはどうしたらいいの? BL俳句を鑑賞する才能がない。と落ち込んだ。

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