BFC3全作感想(たぶん。Aグループ除く)

全作面白く、面白い作品の中で差をつけねばならず、2とか3の評価を無理くりつけたが辛かった。

印象に残っているのはイカの壁と超娘。超娘はルリリンの変身バングが物語を描写する神の視点、この場合は作者に非常に近い人物ではないかと思ったことから、ルリリンのステッキが作者になんらかの異常な作用をもたらしたものだと読んだ。怖かった。この読解には自信がないのでみんなのルリリン解釈をはよ聞きたいなと思った。

予選満点はDグループの「爛雪記」ではないかと予想した。四季を擬人化し神話化した作品。好き。

個人的な好みは「バックコーラスの傾度」。パラノイア的空想世界が現実を侵食する手触りが好みだった。似た手触りを「第三十二回わんわん フェスティバル」にも感じた。三十二回も続いているのにどんな祭りなのか全く分からない。マンション管理組合の主催する祭りなのだろうか。マンションには犬が飼えないから? それで外から犬を呼び込む催しをしているのだろうか? 目的や内容が全くわからず、怖い。犬がいなかったら主人公はどれだけ絶望するだろう、ということを考えるとそれはオーディションがいつまでも続いていると感じているバックコーラスの傾度の主人公を想うのと似た怖さだった。絶望する前の、訪れる破滅を予感すらしていない未知の、可能性を前にした恐怖。しかし私たちは本能的にその破滅の予感をいつも知っているのではないか? 生が常に死に脅かされているように。それは「中庭の女たち」の世界にも共通する雰囲気かもしれなかった。誇大妄想と死への予感と、それを振り払うための芸術の手触り。わたしはこれらの予感と芸術を愛している。
 中庭の女たちではこのような妄念にも似た執着が空虚な言葉となって結ばれる。そこに至るまでの幻想のイメージに私たちはこれまでの経験や人生観からあらゆる要素を託すだろう。そしてそのイメージは第三者の脳裏に単なるうわごととして着地するだろう。

「小さなリュック」と「沼に沈んだ」は都市で生活する人が不意に接近する無縁性を描いていると感じた。リュックの持ち主は無縁の沼に沈んでしまった。主人公は少女と自らを重ね、それでも自分たちの間に接点などはなかったかのようにバイト仲間と話す。透明な沼に沈んでいく主人公は自らの状況を実況し友人に助けを求めるも、誰も助けてはくれない。一度社会との接点が絶たれてしまうと再起不能になるという不安を、自らの誇大妄想としてではなく社会を構成する人々のリアクションとして冷静に描いている。当事者でありながら観察者でもあるふたりの視点は、それぞれ故人と社会に向けられ交わることはない。

「お節」と「生きている(と思われる)もの」を私はBFCの仕組みの中でうまく評価できなかった。これらの物語は六枚の中で完結しておらず、外側に向かって広がっていると感じられた。掌編を評価するという目的の中で、完結しない物語への評価は辛くなった。同じ理由で「五年ランドリー」もうまく評価できなかった。初稿とされている投稿を読んだ。くわえられた要素が物語をわかりやすくするための要素であり、はじめに築かれた無縁の世界とぶつかり合いなじんでいないと感じた。ふたりの無関心さが抱き合う描写につながるまでの不自然さ、読んでいるときの違和感、これを言葉にあらわすのは難しい。ふたりの間の感情に愛を感じなかった。それがさも愛のように表現される過程についていけなかった。

 「明星」百合だな、と思った。百合は好きだ。だからつい厳しくなる。吸血鬼のくだりが不思議だ。どんな秘密が交わされたのか、死者とふたりの少女の間に何があったのか。入り乱れる時系列、ふたりの少女が本当に存在していたのかもわからなくなる。どちらかがどちらかの妄想かもしれない。

川柳は普通に感心してしまった。文字の並びも美しく配置されていて、隙がなかった。小説の中に混じると一行開けが正しいとは思われなくなる。これはあくまで相対的な評価なので作品の根本的な良し悪しには関係ないと思いたいが、レイアウトも重視して評価してしまったことは確かだ。そのせいで短歌への評価が辛くなった。自分でも公平な採点ではなかったと感じている。申し訳ない。

「カニ浄土」と「ロボとねずみ氏」、「金継ぎ」はSFとして読んだ。カニ工船を思わせるタイトルとプロレタリア文学を思わせる内容の一致は偶然ではないだろう。浄土とされているのも、カニにとってはいずれそこが浄土となることが約束されている場所(つまり人間らしきものたちの絶滅がほのめかされている)だからではないか。ロボとねずみ氏はやや作劇を感じさせる内容。信頼できない語り手ものとして読んでもいいだろう。死の概念と機械という哲学的なテーマに叙述トリックが隠されていることが気になった。完成度は高いが感動は薄い。「金継ぎ」は美しく隙のないSFだった。強いて欠点をあげるとすれば、海外では金継ぎが陶器などの欠けを修復する技術としてではなく、製品の新しいパターンとして認知されていることと同じく、物語の中で金継ぎされた月も大半は失われてしまい、金継ぎの美点が損なわれていることだろうか。


この文章は2021年11月7日午前7時01分に書かれたもので、BFC3のジャッジ文が公開され次第公開しようと考えている。公開するのを忘れるかもしれない。全作感想を述べたつもりだけれども、足りないところもあるかもしれない。抜けている作品があったら教えてほしい。

2021年11月9日13時43分追記

 あ!抜けあったよ! 「やさしくなってね」これはかのグループわたくしの推しです。児童と母親。児童のもつ暴力性が顕現したような「それ」。暴力を暴力で制することが称賛される。タイトルのやわらかさと作品のギャップに惹かれました。タイトルだけなら予選通過作の中でぶっちぎり優勝です。

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