moncha
四六時中きみといることが どんなに幸せだったか 手を伸ばせばすぐさわれる 小声でもちゃんと聞こえる 暗闇でも気配を感じる 3Dで毎日ちゃんと目の前に現れるのよ 月1でしか味わえなかった感覚が毎日 どうなってんのこれ? 一緒にスーパー行くだけで幸せで 一緒に松屋行くだけで幸せで 一緒にジャンカラ行くだけで幸せで なんなら一緒にゴミ捨てに行くだけで幸せやん こんな日々がずっと続けばいいのに To be continued...
それからきっと色々あったと思う 多くは語らなくても たくさん悩んで悩んで悩んで 出した結論なんだよね 彼は大阪に戻ってくることになった うちにはダンボールが2箱送られてきた うん、これで良いのだ 別に進む道はひとつに決めつけなくてもいいと思う こうして私と彼の共同生活が始まった To be continued...
長年ガンガン飛び込み営業してきて 新人教育もしてきて 別に心理学とか勉強したわけじゃないけど 経験でこのブサイクさが何を意味しているかは大体わかる うん、めちゃくちゃ悩んでる まぁ私の話なんてうわの空 返事は返ってくるけどさ 頭が違うことに支配されてることくらいお見通しだ こういう時 押して効果がある人と 引いて効果がある人に分かれる うん、この人は私が押したところでビクともしない てことくらいキミの性格と(ちょびっと血液型)を見ていればわかる だか
それから私達は月に一回のペースで会うことになった 私の方が仕事の融通がきいたから 横浜で会うことが多かったかな 会えない日も ラインのやりとりが楽しかった 電話をすれば朝まで時間を忘れて話した 同じ話を何回しても飽きなかった 隣にいなくても 触れていなくても 同じ時間を共有できている それだけで楽しくて 胸の鼓動が早くなって 些細なことにキュンとして あー、なんか私生きてるって感じだった まだちゃんと女の子じゃん、て ここ何年間か行方不明になって
それからなんとなく会う約束をした 言葉はいらない 大人の恋愛ってこんなものなのか ここ最近の恋愛事情は複雑で テキトーで 今考えてみれば黒歴史 人を好きになる感情すらぶっ飛んでた それがなんだ 急に思い出すやん 誰かと一緒にいたいと思う感情ってこんなんだったか 私を人間に戻してくれてありがとう そんな感謝すらした でも環境はこうだ 彼は横浜 私は大阪 つまり遠距離 まぁ人生そんなにすんなりいかんてことよね To be continued...
「今度、みんなで飲みに行きましょ〜!!」 そんな元同僚からのお誘いがきっかけで私達は再会した その後何が起きるかなんてその時は予想もしておらず お酒の席が大好きというだけでもちろん出席した ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 色んなことをこれでもかってくらいスッ飛ばすけど なぜかうちら2人で次の日のお昼にうどん食べてた To be continued..
そもそも私は 結婚=幸せ というとんでもない勘違いをしていた 現在私たちは一応まだ新婚という類に分類されるであろうカテゴリーにいる 私たちが入籍したのは2020年5月 世間で俗に言う「コロナ婚」だ 2人で過ごす時間が増え、愛を育み、お互いを人生で必要なパートナーとして改めて実感することができました♡ という人たちばかりではないことを皆さんにも認識いていてほしい 私たちは結婚しなければいけなかったのだ それがたまたまコロナ禍だったというだけ 私たちが出会った
V6解散というニュースを見て、少し思ったことがあったので記事に残しておこうと思う。(そういえば私が自分のお小遣いで初めて買ったCDはV6のoverでした。まだ8mmの時代でしたね。) 少し前に嵐が活動を中止して、メディアで見かけることが少なくなるのかと思っていたら、全くそういうことはなかった。 その理由は、急ではなく計画的だったという点もあるのかもしれないけど、もともと個人個人が自立していたことが一番の理由だと思う。 グループとしての活動はしっかり団結してこなすが、グループ
私の小さい頃の夢はセーラームーンだった。 そしてピアニスト、歌手になり、 パティシエ、美容師になった。 そう、成長するにつれ現実を見るようになったのだ。 ちょっとおませになった頃、セーラームーンと言うのが恥ずかしくなった。だって、テレビの中の世界じゃん、て。実際あんな大人見たことなかったし、変身するとか、へっ?って感じじゃん? そうやって私の夢は、幼稚園の頃に第2段階へ進んだ。 ピアノは習い始めですごく楽しかった。幼稚園の中では弾ける方だったからさ、自分は上手いと
私が最初に住んだ昔ながらのそのおうちには黒電話が置いてあり、祖母がよくグルグル回して電話をしているのを見ていた。両親が共働きだった私はおばあちゃんっ子だった。私もそれやりたい!と、小さくて短い指を数字に引っかけて、ガラガラガラ、ガラララララ~というのを人様に迷惑をかけない程度に楽しんだ。 古いおうちのすぐ横には祖父母が飼育している牛がたくさんいた。私はあまり出入りしたことはなかったが、たまぁ~に連れていってもらった記憶がある。牛があまりにも大きくて、少しこわかった。祖父はと
人が何か新しいことを始める時、色んな気持ちが交錯する。不安、緊張、ドキドキ、楽しみ、期待、など。持ち合わせる気持ちや度合いは人それぞれだろうが、必ず全員が持っているものがある。 フレッシュさだ。 そう、新しいことを始める=今まで経験したことがないことを始める、ということだ。そこには何が生まれるかというとフレッシュさが生まれるのだ。 ここからはその新しいことを始めたのが自主的であり、かつ挑戦的であることを前提に話をする。 自ら何かを変えたい、やってみたい、と挑戦する気持
ここからは時々フッと蘇ってくる断片的な記憶を思い出した分だけ綴っていこうと思う。 まず、私の一番古い記憶はというと、茅葺き屋根のおうちのトイレは俗に言うボットン便所。お風呂は木でできた浴槽で、記憶では毎日祖母が外で沸かしていた?焚いていた?気がする。 私がそのボットン便所ではまだ用を足すことができなかった時、確かアヒルのおまるを使っていた。ある日私は大の方が出て、いつも通り親を呼んだ。父がお尻を拭きに来てくれたその瞬間、大声で母を呼んだ。 「おーーーーーーーい!!!!大
社会人と呼ばれるようになってから約10年。 氷河期真っ只中の時期の就職活動。そこそこの四大を卒業しても卒業式に就職先が決まっていない人はざらにいた。私もそのうちの1人だった。もちろん選ばなければ働く先はあったと思う。だけどアルバイトとは違う、これからの人生を大きく左右することにもなり得る初めての仕事。夢くらい持ちたい。 でも実家に帰る気持ちも全くなかった私はとにかく目の前の生活を成り立たせる為に何でもいいから働くしかなかった。 仕事は始めたら始めたで何でも一生懸命やろう
昭和最後の年(厳密には1年前か)私は生まれた。母は新潟での里帰り出産。もちろん私には全く記憶がないが、午後10時は過ぎていたとか。私の夜型の体はすでにこの時から形成されていたのかもしれない。 父は私が生まれたという知らせを聞いて、千葉から新幹線に乗って駆けつけたらしい。まだその時は名前も決まっておらず、移動中悩みに悩んだ結果、途中で窓から見える川の名前から名付けたらしい。その川の名を書くと自然に本名公開になるのでそこは想像に任せるが。その川のように雄大で綺麗に澄んだ心を持っ