見出し画像

ディストピア

バスタブに張った湯はショッキングピンクにした。カシスとバニラ、それからシナモンの香りらしいんだけどそれでもどうも匂うなあ。どうせなら泡風呂にしてしまおうか迷ったけど、君が文句を言いそうなのでやめた。
なんにせよ、もう私たちは終わりで、それから始まりだった。

美しいロココ調のスイートルームに辿り着くまでにいくつもの試練を乗り越えた。もう説明したくないくらいのプランを練った筈だったけど現実は甘かった。沢山の罵声を浴びて、人を騙して、都会を縫って、逃げて、逃げて…「ねえもう!疲れた〜!」バカでかいバスルームの角で小刻みに震える君の薄い華奢な胸にどさっと乗り掛かると、ママに買って貰ったシルクのキャミソールドレスがじんわり赤くなる。台無しね、ごめんママ。
君がビニル性のレインコートで頬を拭いながら「ロ、ロゼシャンパンでも飲む?今日はしゅくはいなんだ…」とてんとう虫みたいな声で言った。
まだアドレナリンでハイになってて、現実味がないけれどそうなるのも仕方がないよね。でもさ、ロゼシャンパンなんて最高じゃない!「そうね!じゃ、先にバスタブ片付けてくるから、君は先に準備してて!」紫陽花色の唇の君にキスをした。愛してる、これでもう私たちは戦わずに済むんだ。スキップする度に大理石の床にキスマークみたいな足跡がつくので神経質にそれを拭き取る。修学旅行以来のキャリーケースからゴソゴソ取り出して少しづつ片付けてやった。変に几帳面なので最後まで諦めずに死体を丁寧に洗った。中年ってどうもブヨブヨして嫌な肉付きだ。でも、このナイフは良く切れるとパパが自慢していた通りだわ。怒りや憎しみっていうのは、いずれ静かになる。静かになった時が狙い目なの、いい?ピンク、赤、変なラメに塗れながらすこしだけ悲しくなってシャワーに殴られた。

全部を済ませてキャリーケースを引きずりながらバスローブで円形ベッドまで向かう頃、君は震える手が収まってきたのかシャンパングラスとかのカチャカチャする音が止んでた。バーでバイトしてた時の経験からか、1ミリの誤差もない完璧なテーブルだった。好物のブラータチーズとアメリカンチェリーもある!あとそれから、ペディキュアを真紅に塗り直していて良かった。

抱きしめてバスローブに包むと少しだけ顔色が戻ってきた。礼を言うと「君のためなら何だって出来るんだ。」と左目に彗星が光っていた。私たちって最強のタッグだけど、これは良くないって分かってる。だから私たちは、もう私たちは終わりで、それから始まり。始まりは、どんな始まりかわからないや。

身の丈に合わないホテルと夜景、それからディナー、ドレスどれも恥ずかしいと思わない。きちんと犠牲を払ってきたんだもの。「君って綺麗だね」と一言言うとこんな高層階からあっけなく飛び降りた。私は、私は、そんな気がしていて視界がチカチカしてやけにピンクで浮かれた部屋に、血の混じる唾を吐き捨てた。一粒だけ涙を出した。

明日、さっさと東京を出よう。それから私は私でなくなる。手を引いてどこまでも君が走ってくれたことだけしまっておく。さよなら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?