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人生の密度が不足している/「昔はヤンチャしてた」存在への羨望

コンテンツ性のある逸脱の不足

 書き手が経験していたことについて書かれたタイプのネット上の「読ませる」テキスト群、あるいは一部の個人VTuberの語り動画などにあるような、大学サボりながら薬をキメていたとか、諸々の性的逸脱とか、あるいは自殺未遂からの生還などといった、いわば(インターネットウケするタイプの)コンテンツ性のある逸脱が俺の人生においては圧倒的に不足していましたし、
現在の俺よりも(人間年齢換算で)年下の人々が若くて10代後半からそうした逸脱を繰り返しているのを見聞きすると、彼らに比べて俺の人生には「密度」があまりに不足しているのではないかと考えることがあります。

 要するに「昔はヤンチャしてた」的なエピソードが無さすぎるのであり(そもそも俺のような存在は「昔はヤンチャしてた」系の人間にシバき回されていたような側だし)、
逮捕家族の目、それこそといったリスクを恐れるあまり、そうした「コンテンツ性のある逸脱」を経験せず生きてきてしまったことこそが俺の人生における大きな損失なのだろうと感じているわけです。

真剣に生きていないような気がする

 自分は過去も現在も含めて真剣に生きていないのではないか、という感覚がありますが、今更真っ当な道に戻れる立場でもないし、セケンや権威が決めた「真剣に生きるとはいかなることか」をなぞるだけが「真剣に生きること」なのか?という反抗期的精神もあるし……といった具合に延々と内省し続けているような状態が年単位で続いてはいます。
そんな中でWeb上に創作物を上げるようなことを続けていればあたかも自分が真剣に生きているかのような錯覚が得られるからやっている、という部分も無くはないです。

どうせ死ぬんだし別に真剣に生きる必要なんてないじゃん、と言われればそれまででもありますが。

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