まだ足りない
後悔を語るのは何度目だろう。海馬による症候群的映像は、私に足りなかったものをもう何年も見せている。
まだ足りない。
悪意が足りない。
物語が足りない。
時間が足りない。
経験が足りない。
知識が足りない。
「こんなはずではなかった──」なんてもう言いたくはない。
だがしかし、私は何度でも間違えるだろう。
私はこれからも間違い続けるだろう。
私にとって足りないものは、果たして、私を足らしめるものだろうか。
私を足らしめるものは、悪意だろうか、狂気だろうか、友愛だろうか、それとも知識や経験や技術だろうか。
いや、私は足らしめられたいのだろうか?
私は、自分以外の人生をどう変えられるだろうか?
私のやっていることは芸術だろうか?
そもそも芸術とは何だろうか?
本当に「誰かの人生を変えるためにある」のだろうか?
私は、成長できていたのだろうか。
ワークショップに行って、打ちのめされて、演劇を観て……それで表出したものがあの作品であるならば、私は、何が変わったのだろうか。
私は、ワークショップで得た学びをきちんと踏めていたのだろうか。私は、何ができたのだろうか。
まだ足りない──
何もかも足りない──
この薊詩乃は未だ何者でもないが──
けれどいつか世界を滅ぼす存在であると──
そう信じている──
だがこのままではそれができない──
まだ足りない──
私が書きたかったものは──
傷つけたかったものは──
呪いたかったものは──
いや本当は全く──
私は──
本当は、気づいてほしいのかもしれない。
そうでなければ、あんなにも醜く、挑発的で、末恐ろしいことができなかったはずだ。
だがそれが私を足らしめるものなのだろうか?
私には分からない。
分からないから書くしかない。
私が“足りていない”限り、私は吐き出すしかないのだ。
薊詩乃が、薊詩乃であり続けようとする限り。
もう純粋な言葉は書けなくなった。
真っ直ぐ想いを書くべきなのだろうか。
その方が面白いのか? 私には分からない。
もう戻れない私が、もう許されない私が、この先いつまで、どんな物語を漏出させるかは未知である。
しかし、私の“足りなさ”と、私の“許されなさ”と、私の不浄は衰滅しないだろう。
まだ足りない──
こんなものではない──
私の呪い──運命──曲がった車輪──
2023年12月19日 薊詩乃
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