幼少期を思い出すと姉の話しか出てこない


子ども時代、正確には中3のある時期まで、何も考えずに生きていた。
色んな場面で困りや悩みはあったはずだが、それを自認して言葉にすることができなかったため、自分には悩みが無いと思っていた。

だからこの文章は、「あの頃からずっと思い続けていること」ではなくて、思いを言葉にできるようになった今、過去の自分の思いを分析したものだ。
ここまでの人生を整理しておく目的で、書く。




物心ついたときから、絶対に敵わない同世代がいた。姉だ。

幼児期

私の姉は万能の人だった。
だった、というか、今もよくできる人だと思う。でも幼い頃は「世界のほとんど全てが姉」状態だったから、今よりもさらにその印象が強かった。


姉は昔から頭が良く、快活で、人と仲がよく、やりたいことを実行する力があった。その上、大抵のことを上手くこなした。
私は生まれつき、彼女に比べて劣っていた。
歳が違うので当たり前とも言えそうだが、残念ながら年齢が追いついても、当時の姉にはいつも追いつかなかった。その原因のひとつは、ずば抜けた臆病さにあると思う。


私たち姉妹がチビだった頃、もうその頃の記憶はほとんど無いものの、北部の雪が深い地域に住んでいた。
ある冬、大人の腰くらいまでどっかりと降った雪を目の前にしたとき、
姉は一目散に駆けてゆき、全身雪にダイブしたが、私は「こわい〜〜」とギャン泣きして母の脚にしがみついていたらしい。

この話をもう何百回聞かされたし、その度に、まぁそうなるよな、と思う。これは今やってもそうなるだろう。

私は変わらないことが好きだ。いつも同じことをして毎回素敵な結果が欲しい。
当時から、結果の見えない冒険や挑戦は嫌いだった。

なので、姉が試して大丈夫そうだったことの中から、楽しそうなことをして安全に過ごしていた。
モノマネは本家を超えられない、という言葉があるように(実際がどうかは捉え方にもよるかもしれないが)、私は絶対に姉を超えられなかった。本家にはプレミアがついているし、まず私が本家を超えようなどと思ってなかったから当然だ。

その代償とでも言うべきか、弱っちい私は、強くて賢い姉に都合よく使われた。
命令のようなものをたくさん聞いた。姉は都合よく私を遊びに付き合わせ、嫌になると身勝手に私に付いてくるなと言い放った。ケンカしたとしても、大抵負けるか、私が泣いて両親が仲裁に入って終わった。

姉には勝てない。それが私の世界の絶対だった。

でも姉の真似をして姉の言うことを聞いている間は、姉以外のあらゆる脅威は消えて無くなるので、姉の我儘くらい、と甘んじて受け入れた。
私は「怖いけど優しい姉にひっついて回る妹」になることで自分の身を守った。
姉のことは好きだったので、結構楽しんでいた。姉は気分屋で圧は強いが、誰よりも強くて、優しいのだ。


小学校

小学校に入学し、いろんな人に出会った。ここで素晴らしい友人たちにも出会っていた。
というのに、実の姉に盲目だった私は、周りの人を全員「姉よりすごくない人」だと思っていた。姉は器用でカリスマ性があるので、「学校」という場で無双していた。


出会う全ての同年代が「姉よりすごくない人」という状況。やっぱり姉が一番すごい。誰も姉には勝てない。小学生になってからも、変わらず姉の後ろをついていった。

自慢の姉だった。
だが、どこへ出ても姉の次点だというのが、やはりなんとなくつらかった。


日々姉の背中を追いながら、どうにかして姉を超えてみたいと思っていた。何か一つでいいから、親とか先生とかに「姉よりもすごい」と言われたかった。私は考えた。

私も比較的勉強が得意な方だったが、姉はもっとすごい、音楽も図工も姉の方がすごい、字も姉の方が上手い、体力では勝てない、3歳から習っているピアノは、(絶対私の方がたくさん練習しているのに)姉の方が上手い、、、

なんでだ!!!

ある晩、私は、泣きながらピアノを練習していた。理由は忘れたけれど、多分練習が上手くいかなくて悲しかったか悔しかったかと言ったところだと思う。当時からメンタルが弱かった。
ピアノの椅子に座ってボロ泣きする私に、母が慰めるようにこう言った。


あんたは毎晩こつこつ頑張っててえらい。


その言葉がぽつと心に灯った。これだ、と思った。
絶対に姉に勝てなかった私に見えた、唯一の突破口。それは「真面目」だった。


真面目なのは良いことです、と教わっていたので私は真面目に生きることにした。というか生来真面目ではあったが、更にそれをきわめて、アピールポイントにした。

真面目は良いことなので、姉より真面目ならば確実に褒められるはず。
この頃とにかく私は、親とか先生とかに「お姉ちゃんよりすごい」と言われたかった。

姉より先に宿題をする。食器をちゃんと運ぶ。道端でゴミを拾う。いつでも困らないように、はさみや割り箸を持ち歩く。いろんな場面で姉よりもちゃんとしようとした。姉は奔放で型破りな人だから、そう難しいことではなかった。


するとどうか。
目論見通りと言うべきか、私たち姉妹には、「奔放な姉と、しっかり者の妹」というコピーがついた。どこへ行っても、妹の方がしっかりしてるね、と言われた。その一瞬だけ、私は確かな優越感に浸ることができた。

こうして真面目に目覚めたのが、小学校2、3年くらいのことだったと思う。

それからそのまま、真面目以外の項目で姉を超えることができないまま、数年が経ち、だんだん「真面目」「責任感」「しっかりもの」といった言葉だけでは承認欲求が満たされないことに気づき始めた。
私は、姉よりすごいことをしてみたくなった。


それが中学受験だ。
当時、夏休みと冬休みだけ通っていた塾で県立中学受験の話を聞いて、賢いと思われたくて受験したいと言ったんだと思う。そこが目的だったので学校に入ってから何がしたいとかは何も無かったが、母は承諾してくれた。

落ちた。

あとから聞いたことだが、母は「頭の硬いあんたが受かるとは思ってなかったけど、姉と違うことしたいって言ったのほとんど初めてやったから」という理由で、応援してくれていたらしい。馬鹿にならない塾の費用は、私の地元中学での学力の基盤になったと信じる他ない。



結果はともかく、この経験は私に「姉以外の基準を持つこと」を教えてくれた。世界には同い年なのにこんなに賢い人がいっぱいいるんだ、と思った。

姉は地元の中学に進んだ。
私も同じ学校に通うけれど、その前に一旦、すごい感じの挑戦をした。それは、とても大きなことだったんだと今になって思う。

ちなみに脳と口が直通していたため、同級生にも割とおおっぴらに受験の話をしていたが、私があまりにも気にしていなかったからか(気にしろ)、みんな特に私に興味が無かったからか、落ちるだろうと思われていたか、理由は不明ながら、地元中に入学してからも気を使われることも陰口を叩かれることも無かった。
みんなは涼やかないい人だったし、私はいじりがいのないマジレス人間だった。



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