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【短編】レッスン

「ユニークね、って言ってたよ」

練習スタジオでよく会ったり、スタジオ主催のイベントで一緒になったりするうちに気軽に話すようになった女性が言う。

彼女は多分僕と同じくらいの年齢で、街の音楽教室に長く通っていた。
大手楽器メーカーとかが経営するタイプの教室で鍵盤を学んでいたようだけど詳しくは知らない。

その夜、僕は練習スタジオの事務所に居た。

僕達のバンドが練習に使っていたスタジオは家族経営の小さなスタジオで、とにかくアットホームな雰囲気が強かった。

たまたま、そこで練習するいくつかのバンドが続けて全国展開出来るようになった事もあり、時には各地からファンの子がそのスタジオに集まったりして、なんだかいつも活気があった。

スタジオを経営するマスターとママさんは、若いバンドマンを身内のように扱ってくれた。
特に、地方から移住して来た僕達には格段に優しかったように思う。

そのマスター達の人柄もあってか、たくさんの気の良い若者達が集まるスタジオで僕達はいつの間にか知り合いを増やしていた。

彼女もそんな中の一人だ。
その夜、友人と飲みに行くママさんの代わりにスタジオの店番をしていた所へ彼女が現れた。
ママさんに会いに来たらしい。
「〇〇(飲み屋の名前)に行ってるよ」と告げたら、去り際に僕の声の話になった。

「だからね、ボーカル科の先生にデモテープ聴いてもらったの。そしたら『ユニークな声ね』って言ってたよ」

「何それ?褒められてんのかな?」

「いやそれは知らんけどー」

そこは深く聞いてくれないのか、と思ったらからかわれているようでなんだか不愉快になって来た。
大体、特にウチのバンドが好きな素振りを見せた事の無い彼女が、なんでウチのデモテープを持ってんだ?
しかも、わざわざそんな先生に聴かせる、って。一体何を確認しようとしてんだ?

「自分で聞いてみたら」

「え?」

「体験入学、ってシステムがあってね。無料でレッスン見学とかちょっとだけ参加とか出来るから。先生がね『彼さえよければどうぞ』って言ってたよ」

「何それ?勧誘?」

「いや、それは違うと思う。その先生、そういう商売っ気とかまるで無いし。それにねー、長年通ってるから感じるんだけど、経営側と講師陣って、そんなにガッチリ一枚岩でも無いみたいよ」

「そんなモンなの?」

「そんなモンなの。事務所サイドからストップがかかるまでなら何度来てもいいんだって、体験入学」

「ふーん」

「勉強になると思うよ。それに、向こうから持ちかけてくれてるんだから。ラッキーじゃない?」

たしかにそうだ。
その頃の僕は、自分の歌にまるで自信がなかった。
演奏隊はしっかりやってくれる良いメンバーが揃っていただけに、僕はもっともっと上手く歌えるようになる必要を感じていた。
だからこの話、少々図々しいと思われようがなんだろうが受けてみる気になり始めていた。

「じゃ、電話してみたら。〇〇先生って人だから」

そう言って彼女は特に何事も無い感じで去って行った。

「街の音楽教室」という僕のイメージは、そのビルの前に立った瞬間に崩れていた。
大掛かりだ。
都会の音楽教室はこうなのか、とカルチャーショックを受けながら玄関ホールに入る。

受付カウンターでニコニコ笑う女性に「あの、体験入学なんですけど、〇〇先生の」と言うと、なにやら書面を確認した後「三階、A教室です」と案内してくれた。

大掛かりだ。
パート別にフロアが違うようだ。

案内された教室に入る。
もう生徒さんは集まっていた。
十数名ほどの生徒さんは年齢も性別もバラバラな感じだった。

前方のピアノに女性が座っている。
多分あの人が〇〇先生なんだろうと思い、近づいて声をかけた。

「あの、体験入学で来たんですが」

「あぁ、電話の。えーと、後ろの方に座ってください」

先生は歳の頃四十歳くらいで、特にこれといった特徴が見当たらないごく普通の中年女性だった。
その上、本当にこの人が声をかけてくれたのかと疑ってしまうほど僕に対して興味が無さそうだった。

少し居心地の悪さを感じながら、僕は一番後ろの席に座った。

授業が始まる。
まず始めは入念なストレッチからだった。
首、肩、上半身、腰、股関節。
続けて顔の表情筋へ。
丁寧に続けられるストレッチに僕は早速驚いていた。

ストレッチの後、発声練習が始まった。
特に口角の上げ下げを意識する事を先生は何度も言っていた。

「入っていいですよ」

そう言われて僕も全体の発声練習には参加させてもらった。
ただ、体験入学という事もあって、それ以上の個人的な指導は無かった。

続けて個人指導。
どうやら一人一人が「歌いたい曲」を持っていて、実際にその曲を歌って指導を受ける、という形のようだった。

曲のジャンルもバラバラで、歌謡曲も洋楽も、スタンダードな名曲もあった。

一人目の生徒さんが先生のピアノに合わせて歌う。それなりにちゃんと歌えているように感じる。
そこへ、先生の細かい指導が入る。

「そこ、もう少しこんな風に〜」

そう言った後、先生が歌う。

驚いた。
ただただ、驚いた。
何だ、この声は!

「歌を聞く」というより、先生の小さな体から放たれる振動の波に包まれるようだった。
教室の空気が一瞬で変わる。
鳥肌が立つ。
鼓動が速くなる。
力強い。
でもとても柔らかい。
歌が上手いと思う人は僕の周りにもたくさん居たが、先生はまったく違う次元に居るようだった。
もう比較すら失礼に思えた。

僕は、その一瞬で先生の声の虜になった。

帰り道、まるで治らない興奮の中で僕は考えた。

僕は「歌」の事をまるで解っていなかったんだ、と。

それからの僕は、無理矢理にでも時間を作っては先生の授業に通った。
他の生徒さんの歌に対する先生の指導から、自分が何に気を付けなければならないのかを学ぶ為だった。

正しい発声、呼吸、怪しい音程の直し方、ブレスの位置、ビブラートの効果的使い方、歌詞のイメージに対する発声の変化。

それらはすべて実践的だった。
そして、僕が意識していなかった事柄がとても多い事に気付かされた。

僕は先生の一言一言を聞き漏らさぬように必死でノートを取り、家に帰ると一人でその日のおさらいをした。

祈るような日々だった。
いつか事務局からストップがかかる事を考えると、ひとつひとつの授業がとてつもなく大切に思えていた。

その日、そろそろ顔馴染みになりつつある受付のお姉さんに「体験入学です」と告げる。
いつものお姉さんの笑顔が、少しだけ変化する。
それでも、とても感じの良い言い方で、

「あのー、そろそろ正式な入学を考えてもらえませんか?」

覚悟はしていたけれど、別れは突然にやって来た。

教室に入り、いつもの後ろの席に座る。
いつものように皆さんを指導する先生の動きを眺め、あの素晴らしい声を聞く。

去り難い。

いつも異分子のポジションで、誰かと親しくなった訳でも無い。
それなのに、こんなにも去り難い。

でも、現実を考えればその頃の僕のバンドは全国展開の足掛かりをやっと掴み始めた頃で。

いざツアーに出れば、1〜2週間は出っ放しになる事も多く、空いた日は日雇いの土木作業員のアルバイトでなんとか生活費を叩き出していたような状況で。

通えるわけが無い。
授業料を払えるわけが無い。

その日、最後の授業を聞きながら、僕はいつもより少し上の空になってしまっていた。

授業が終わった後、僕は先生に話しかけて受付で正式な入学を勧められたいきさつと入学出来ない事情を正直に話した。

「・・そう、残念ね」

先生は譜面を片付けながらゆっくりと語った。

「最初はね、私も緊張してたの。現役のロックバンドのヴォーカリストが来る、ってね。そんな経験無かったから」

意外だった。
あの日の先生から「緊張感」なんて、僕はまったく感じていなかったからだ。

「でも、とっても熱心だったから感心しちゃってね。だから本当に残念なんだけど。

でもね、声っていうのは一人一人違う所が面白いし、またそこが難しい所でね。
基本的な部分は教えられるけど、最後の最後は自分で見つけて自分で掴むしかないの。
それはうちの生徒さんも皆同じでね」

先生はとても真剣に、でも少し照れ臭そうに続ける。
考えてみれば、先生とこんな風に会話するのはその時が初めてだった。

「例えるなら『あなた』というのは世界にひとつしかない楽器でね。
そしてそれを演奏出来るのも世界中でただ一人、あなただけなのね。
だから、あなたが『こんなもんだろう』と思えばそうなるし、『もっと何かがあるはずだ』と思えば、必ず何かがその先にあるのよ」

そう言って先生は一度閉じていたピアノの蓋を開けた。

「少し声を出してみましょう」

そのクラスで学んだ発声練習を、先生の後に続いて歌う。

ひどく緊張した。
でも、とても心地良かった。
まだ足下のおぼつかない水鳥の雛が親鳥の後を必死でついて行く光景を僕は思い浮かべていた。

「とてもユニークな声よ」

先生は言った。

「磨けばもっと素敵になるわ。磨き方のポイントは伝えたつもりよ。大切なのは続ける事。急に良くはならないから。とにかく続ける事。
それから、楽しむ事。
楽しんでいない人の声が人の心に響く事は決して無いわ。良い時も、上手くいかない時も、とにかく歌う事を楽しんでね。
だってそうでしょう。
あなたは今、故郷から遠く離れた所で定期的にステージに立って自分の歌を歌っているんでしょ?
5年くらい前の自分から見たらどうなのかしら。もう夢みたいな話なんじゃない?
ね?楽しいに決まってるじゃない」

そう言いながら先生はピアノの蓋を閉じた。

「でも、」

でも?

「あなたみたいに普段ステージに立っている人でも緊張するのね」

そう言って先生はいたずらっぽく笑った。

そりゃそうですよ、と言って僕も笑った。

日頃から表情筋を使っているからだろう。
先生の笑顔はとてもチャーミングだった。

そんな風にして、先生と僕の最初で最後のレッスンは終わった。
別れ際に先生はもう一度言った。

「楽しんでね。音楽は苦しむ為にある物じゃ無いのよ」

先生には僕がとても苦しんでいるように見えていたのかも知れない。
そしてそれは、ある部分においては正解だったのかも知れない。
先生は声を聞いただけで、きっとそんな所まで分かってしまうのだ、と僕は思った。

通い慣れた階段を降り、受付のお姉さんに笑顔で会釈をしてビルを出る。

振り返る。
もうここへ通う事は無いんだ、と思う。
僕は深く一礼をした。

本当に大切な瞬間には、僕はそれなりに礼儀正しい人間でありたいと願っている。


その後、僕の歌唱が劇的に変化したかと言えば、そんな事は無い。
簡単では無いのだ。
結果的に言えば、先生の指導のほんの僅かな影響を感じられるのに2〜3年はかかったように思う。

それでも、リハーサルの音チェックが始まると、空っぽの客席で僕は入念なストレッチをした。

歌の上手い人はたくさん居たけれど、僕ぐらいしっかりと準備を整えてリハーサルに臨むヴォーカリストにはその後も出会った事がない。

先生が言っていたポイントを思い返しながら体をほぐしていく。

繰り返すうちに、それは人生訓のようになった。

僕という楽器を演奏出来るのは僕だけなんだ。

誰かみたいに歌いたいんじゃない。
僕はもっと僕になりたいだけなんだ。

楽しもう。
もっと楽しもう。
困難さえも満喫しよう。

僕達は、苦しむ為に生まれて来たわけじゃ無いんだ。

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