見出し画像

Steingraeber & Söhne

3才から始めたピアノを人生で、今いちばん堪能出来ていると感じている。幼稚園から帰ると半ば強制的にピアノの前に座らされた。私の場合、音符はいわゆる“ド、レ、ミ”ではなく、ドイツ語式の音名で覚えさせられていた。“Cツェー,Dデー,Eエー,Fエフ,Gゲー,Aアー,Hハー”である。そして練習する際には音名を声に出して鍵盤を押さえるように教えられた。

“シとソの音”が交互に出てくる曲を弾くときは、必然的に“ハー、ゲー”と連呼をするはめになる。私の周りには、年の近い悪がきの従兄弟が5人くらいいたので、これを聞き逃すはずはなかった。

「ブッいま、聞こえたよね?ハ~ゲ、ハゲ~だって!」

とからかわれ、とても嫌だったことを覚えている。
ピアノよりも、私もみんなと一緒に外で遊びたかった。
子供であっても、自分たちとは違うことをしている人間に酷く辛く当たるのものである。それでも辞めなくてよかった。諦めなくてよかった。今は心から、そう思っている。老後に何をしようかなどと、私は悩んだり考えたことは一度もない。非常識な時間帯で近所迷惑になることさえ避ければ、一日中ピアノが弾けるのだ。これほど幸せなことはないのである。

実家にあったのはドイツのピアノメーカー、シュタイングレーバー&ゼーネ社のアップライトピアノだった。それもマホガニーポリッシュドである。これは母の趣味であるわけだが、かなりレアな選択だといえよう。

このピアノの特色は温もりのある優しい音色でありながら、低音の圧倒的な音量や豊かな響きは圧巻である。
かのフランツ・リストは、その生涯で様々な種類のピアノを弾いていたのだが、晩年バイロイトに移り住んでから亡くなるまでは、このシュタイングレーバーを愛用していたと言われれている。最後に辿り着いたピアノということなのだろうか。

そのピアノは母が生前、目の不自由な方たちに寄贈し、今も大切に使ってもらっている。自分の分身のような存在だったピアノを手離すのはとても寂しい気持ちもしたが、後悔はしてはいない。ただどんなピアノを弾いていても、あのタッチが今でも忘れられないのである。近い将来、またシュタイングレーバーに戻れたらといいと思っている。そう、晩年のリストがそうだったように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?