宝塚北高校の校歌をガチ考察する

こんばんは、鮎です。

数時間前にLINEグループで謎の校歌ブームが発生し、様々な校歌が次々に流れてきたのですが

兵庫県立宝塚北高校の校歌がヤバい

ということが非常に話題となりました。果たしてどのくらいヤバいのか。まずはその歌詞を見てみましょう。

兵庫県立宝塚北高校 校歌
作詞:秋浜悟史 作曲:三木稔

1.攝津 武庫川
流れの行方 見はるかし
太平洋 地球 宇宙船
青春が遊泳する
ルルル・・・
だから ラララ・・・
宝塚北高校 ここに

2.名あり 実あり
すみれが丘に 花競い
ありのままに 呼吸 多面体
青春を開拓する
ルルル・・・
だから ラララ・・・
宝塚北高校 ここに

3.長尾 山なみ
変わらぬ色の 松風も
一期一会 いのち 無限大
青春に執着する
ルルル・・・
だから ラララ・・・
宝塚北高校 ここに


なにこれ?????????

校歌に「宇宙船」とか「呼吸」とか入ってるの初めて見ました。おかしい。なかでも2番の「多面体」が一番謎です。非常におもしろい。

ということで(どういうこと?)、歌詞の解釈をしてみようというのが今回のコーナーになります。

まずは1番から。

攝津 武庫川
流れの行方 見はるかし

これは校歌のありがちなとりあえず地名が出てくるアレです。ウェルカムドリンクみたいなものですね。

「見はるかす」ははるかに見渡すことです。この動作の主語はおそらく高校生でしょう。次。

太平洋 地球 宇宙船
青春が遊泳する

1つ目の難所がここです。入試でこれが出て傍線部を引かれでもしたらたまったもんじゃありませんね。

この部分のポイントは「遊泳」だと思います。ほかに情報がなさすぎるので。コトバンクさんによる「遊泳」の定義は、

1 泳ぐこと。「—禁止」《季 夏》
2 うまく世間を渡ってゆくこと。世わたり。処世。「政界を—する」

となっています。

私は両方の意味で解釈しました。太平洋は海ですから泳げますし、「宇宙遊泳」という言葉があるように宇宙船は遊泳するものと解釈して差し支えないでしょう。問題は「地球」です。慣用的な「地球遊泳」という言い回しはあるようですが、厳密な定義は見つかりませんでした。

ここで考えられるのは、「地球」が「宇宙」の対になるものとして表現されていることです。「宇宙」は広大で自由な、そして軽いイメージがありますから、「地球」は閉塞的で制限のある、重苦しい世界と言えます。(曲解ですが)

つまり、この部分の歌詞は泳げるもの(海・宇宙)と泳げないもの(地球)を羅列し、「困難なものもそうでないものも上手く対処して世渡りする」ことを暗に示していると推察されます。

「遊泳する」の主語となっている「青春」は高校生のこととして良いでしょう。次。

ルルル・・・
だから ラララ・・・
宝塚北高校 ここに

やはり気になるのは「だから」でしょう。なんの「だから」なんだと初見は疑問を抱くと思います。

しかし、先述した解釈を踏まえるとどうでしょうか。

生徒たる高校生が困難にもそうでないものにも対処して世渡りできるようになる。そのように育成するために宝塚北高校はここにある。

いたって簡潔で、素晴らしい教育理念を謳っていると言えますね。一見支離滅裂で迂遠な言い回しに思えるこの歌詞ですが、少ない言葉でしっかりと大切なことをまとめているのです。作詞者の秋浜氏の才が垣間見られます。

ではこの調子で2番もいきましょう。

名あり 実あり
すみれが丘に 花競い

まず調べたところによると、「すみれが丘」は宝塚北高校のある地名のようです。

「花競い」の「花」は、様々な可能性を開花させる高校生のことを指していると考えられます。

「名あり 実あり」の部分は文字通り「名実」となりますから、「名実ともに優秀な人材がそろっている」ことを言っているのでしょう。

そのため、この部分は「名実ともに優秀な人材がこのすみれが丘にある宝塚北高校にて、切磋琢磨し競い合っている」ことを言っていると思われます。次。

ありのままに 呼吸 多面体
青春を開拓する

2つ目の難所です。おそらく最も目を引くのは「多面体」でしょう。

「多面体」ですが、特にそういった説明がなされていないのでこれは正多面体ではない、ただの多面体を指していると思われます。正多面体ではない多面体はやや歪で、様々な側面を備えている図形ですね。

そして「呼吸」は、我々が常に行っている動作です。

そして「開拓」。開拓というのは、これまたコトバンクさんからの引用ですが、

① 山野、荒地を開いて田畑などにすること。開墾。
※財政経済史料‐一〇・属島之部・蝦夷地・安政三年(1856)月日「蝦夷地御開拓に付御用途之廉々凡積仕候処」 〔李嶠‐代公主譲起新宅表〕
② 領土を広めること。〔高適‐薊門行〕
③ (比喩的に用いて) 新しい領域や、人の運命、進路、才能などを切り開くこと。「販路を開拓する」
※舎密局開講之説(1869)〈三崎嘯輔訳〉「開化の人は、大に此学を嗜好す、何となれば、人民を開拓するは、此学徳に在るを識ればなり」

以上のようになっています。これはさすがに③の意味でしょう。

つまり、この部分の歌詞は「ありのままに制限されることなく常に行っている動作や、人の様々な側面が、高校生の可能性を切り開いていく」ことを指しているのでしょう。次。

ルルル・・・
だから ラララ・・・
宝塚北高校 ここに

これは1番と同じなので割愛します。次。いよいよ3番です。

長尾 山なみ
変わらぬ色の 松風も
一期一会 いのち 無限大
青春に執着する

「長尾 山なみ」ですが、これも宝塚市内にある山の地名のようです。1番の「攝津 武庫川」と同様です。

「変わらぬ色の 松風も」ですが、松は常緑樹ですから、「変わらぬ色」は風の色ではなく松の色です。

で、ここの解釈に一番苦戦したんですが、松風が「一期一会 いのち 無限大 青春」に執着するのか、松風は「一期一会 いのち 無限大」であり、そして青春に執着するのか。

色々考えた結果、前者の解釈を選びました。「松風がいのち」「松風が無限大」というのは不自然に思われるからです。

「無限大」をどう捉えるかはそれでも悩みどころでしたが、現代の俗語的な「無限に~する」という表現に近しいものだと考えました。

そのため、ここの部分は

色褪せることのない松の風という変わらないものであっても、一期一会の他者との出会い、限りあるいのち、短い時間の青春というものに非常に執着するのだ。況や衰え行く人間をや」といった解釈になります。

やや強引ですが、メッセージ性や1,2番との関係を踏まえるとこの解釈が最適のように思われます。

これですべての部分の解釈が終わりました。まとめてみます。

攝津・武庫川を見渡せる地で、生徒たる高校生が困難にもそうでないものにも対処して世渡りできるようになる。そのように育成するために宝塚北高校はここにある。

名実ともに優秀な人材がこのすみれが丘にある宝塚北高校にて、切磋琢磨し競い合っている。ありのままに制限されることなく常に行っている動作や、人の様々な側面が、高校生の可能性を切り開いていく。彼らを育成するために宝塚北高校はここにある。

長尾の山並みに吹く色褪せることのない松の風という変わらないものであっても、一期一会の他者との出会い、限りあるいのち、短い時間の青春というものに非常に執着するのだ。況や衰え行く人間をや。彼らを育成するために宝塚北高校はここにある。

非常にわかりやすく、一貫性のある教育理念が謳われている歌詞であることがわかりました。校歌の歌詞はやっぱりしっかり考えられて書かれてるんですね。

長々とお読みいただきありがとうございました。皆さんの解釈も教えていただければ幸いです。

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