展評「オーディオ・アーキテクチャ」

21_21 DESIGN SIGHTで開催された企画展「AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展」は印象深い点が多かった(2回足を運んだ)ので、ことばとしてアウトプットしておく。

ドミニク・チェン氏が書いているように、テーマに沿ってキュレーションされる類の展示形式ではなく、小山田圭吾(Cornelius)が展覧会のために書き下ろした新曲『AUDIO ARCHITECTURE』に対して作家たちが独自解釈し映像やアプリとして制作したものを一同に展示したものである。優れた作家たちは個性際立つ独自の語りを展開しており、その表現の幅はとても一つの音楽から派生したとは思えないほどであった。個別作品のアイディアと展示形式から作家やディレクターの技巧の強度にポジティブな印象・羨望に似た感情を抱くが、やはり「オーディオ・アーキテクチャ」というタイトルにはひっかかるものがあったのが正直な感想である。本記事では、作品ごとに言及したのち、そうした所感・雑感を書いている。

個別作品への感想

大西景太「Cocktail Party in the AUDIO ARCHITECTURE」:音を逐次的に可視化して構成していく点は、「地下鉄の動態」から発展的に継承されている。黒い画面に白のオブジェクトというスタイルであるが、レンダリングにおける意匠や空間構成はより大胆になっている。造形的に音を可視化する、音を形・構造体として表象するという点はまさしく「オーディオ・アーキテクチャ」的作品である。彫刻作品を連続的に見せる構成が巧みであり、特にブレイクのときに”Quiet”という無の造形作品が提示されているような演出は見事で、音の構造を最も的確に描写している瞬間といえる。展覧会のなかで唯一、楽曲に忠実に寄り添う形で音の構造を可視化していると思われる作品であった。

水尻自子「airflow」:柔らかさと痛さを同時に表現した変化球的作品。楽曲の質感をほぼ無視して(少なくとも私にはそう見えた)独自の世界観を強烈におしすすめたことが逆に痛快であった。モチーフも文字通り痛快、痛そうなんだけど気持ちいいという。音楽と寄り添うというよりむしろ音楽の構造や歌詞の意味を解体しにかかり、矛盾したモチーフをぶつけ、かつ、そこから快を見出すような独自の映像世界。音楽を主役からひとつの役どころ(やられ役?)に陥れているという点で、音の構造「オーディオ・アーキテクチャ」を解体しているようにも感じられた。つまりすごい

ユーフラテス(石川将也)+ 阿部 舜「Layers Act」:ピタゴラスイッチ的ないかにも脳が喜ぶという作品。それらしいモーショングラフィックス(的な幾何学的コンポジション)が手で動かされていると明らかにされる瞬間の演出が良い。しかしながら、その発想の妙が見事であるが故に、教育的コンテンツとかアナログの道具的発想の回帰みたいなアイディエーション的な話題に行きがちな気がするが、個人的には過去参照の伏線にこそ注目すべきだと思う。”Visual Music”を謳歌したOscar FischingerやWhitney兄弟のアナログ時代のオーディオビジュアルの太い系譜であろう過去作品への愛のある参照と継承があるように思えた。60年台以前はきっとリアルにこのような装置で映像を生成していたことが改めて想起できたのでアガったし、深読みかもしれないが「オーディオ・アーキテクチャ」という言葉を歴史的に振り返ったように見えるのでその点に心を打たれた。

勅使河原一雅「オンガクミミズ」:ピュアオーディオリアクティブだから、そういう意味だと直球のアーキテクチャなのだが、なぜミミズ?というモチーフというか表現の着地のギャップはさすがであり、作家の天才性を再認識せざるをえないと妙に納得してしまう。音の可視化ではなく、楽曲からリアクションして自律的に生成される独自生物なのであろう。技術的な側面からプログラミングによる生成的表現と捉えても、クリシエが横行しがちなアルゴリズムによる絵作りからは明確に差異のある唯一無二の個性が際立つ作品と言える。

梅田宏明「線維状にある」:唯一、あの展示空間やプロジェクション面のスケール感を大胆に意識し、身体スケール、知覚スケールでアプローチした作品であり、展示形式にうまくはまっている作品であった。かつ、唯一「身体的」な作品であった。

辻川幸一郎(GLASSLOFT)×バスキュール×北千住デザイン「JIDO-RHYTHM」:巧みな演出のアイディアと、ARKitの顔認識という旬な技術をバランスよく組み合わせて作られた作品。映像の進行(絵的な展開)の楽しさと、SNS上での拡散や世界からの参与の設計とフィードバックまできれいに行き過ぎてエンターテイメントとして完成されすぎた作品。。フェイストラッキングを用いたアニメーションの秀逸な例として今後長くリファレンスされるように思われる。

音の建築というタイトルから何を連想するか

まず「オーディオ・アーキテクチャ」という単語が自身の見知った領域に引っ張られすぎて、アルゴリズミックミュージックとか、オーディオリアクティブ、もしくは前衛の記譜法などをどうしても連想してしまった。自分だけか。おそらく、自分の興味と恣意的に結び付けられ、Visual Music的な文脈で、音楽と視覚芸術の共感覚(Synasthesia)や、絵による音の表象またはその逆のような作品を、イケてる作家作品を集めてキュレーションしているかと思ったら、まったく違っていた。

音の建築/構造/エンジニアリング的側面を考える展示を企画するのは、一部からはベタすぎると忌避されるのかと想像するが、その実、深い論考や展示が発表された実績は日本ではほとんど無いように思われる。いつか、より概論的な「オーディオ=アーキテクチャ」展はやってほしい気もする。中村勇吾氏は当然そうした能力も人脈も知見もあるであろうから個人的にそうした内容と勝手に期待をしてしまったが、彼の知的興味は全く別のかたちで展示に表象されたようで私の勝手な期待というか展示内容の粗末な予想は盛大に外された。ズコーッと声に出して言っていた。

確かインタビューでも「Oscar Fischinger的世界観の再現は明示的に退けられた」旨は語られていた気がする。しかし私は、その文脈を大いに期待してしまったため、その期待値とのズレは大きかった。事務所にあった”Notations”(まるで視覚芸術のような前衛音楽の譜面をJohn Cageが蒐集し出版したもの)をみて、こういうのこそ「オーディオ・アーキテクチャ」だなぁ、うんうんとしみじみ感じた。

この誤解を生む展覧会タイトルは、ショーン・レノンがコーネリアスを評した感性的な言葉の引用であり、そこには、それらしい(知的に納得感のある)文脈の提示や参照はないのであった。音楽はすべからく建築的な構造を持っている、ということを高らかに宣言してほしかった。(大西の作品で示されたと思ったら水尻の作品で解体されるとかそういう勝手解釈などはできるにしても。)

「音の建築的側面の提示」ではないかわりに、この展示は映像作家のための、個性や差異の発露というものに近く、才ある表現者たちの新しい提示の機会が与えられているように見えた。そのため、各作品は良い意味で生き生きとし強烈な個性を放っていた。

建築的な音楽であったか

コーネリアスの音楽は、映像を支持するというよりは、あの大胆な展示形態・構成を成立させるための道具的な使い方であったように感じられた。
おそらく映像構成のために要求されたブレイクやノイズ。ドラムのリズムのミクロな複層性はあるけれど、楽器や音色、主旋律はフラットに進行する。やや明示的すぎる二項対立の歌詞。映像をつけるというよりは、最初から映像展示のための音楽でありすぎて、逆に構成を失敗してしまったような嫌いがある。その結果、音楽の構成を意識しながら映像と音楽の協業や相互作用を表現しようとした作家はおそらくわずかであるように思える。ほとんどの作家は、実は、音楽とは関係なく映像のアイディア(ネタ)を提示しているすぎないようにも見受けられた。

ショーン・レノンが評した言葉、かつそれが再帰的に冠された楽曲がその言葉を果たしてどれくらい言い得ているかは疑問を感じざるを得ない。

音楽と映像の関係を問い直す

とはいえ音楽と映像の協調関係を問う野心的な展示であったことに間違いない。映像作品の展示においても、多くの課題を解決した斬新なアプローチであることは菅俊一氏が解説しているので繰り返す必要はない。

各作品は良かったし、その展示形式は革新的であるが、「オーディオアーキテクチャ」というタイトルによって自分の中で完全に誤った期待が醸成されたというのが感想の大意要約だ。

これらを総合して、なんとなくポジティブな結論が導かれるのは、音楽と映像の関係性が私の中で考えるきっかけになったということで、それはつまり、こうした話題に議論を促されたということだし、また鑑賞者にそのような契機を与えるよう展示設計が機能していたこと意味する。

ミュージック・ビデオでは日々革新的な作品が数多く生まれ、映像作家の実験場的な媒体であるとも感じるが、その構造上どうしても主は音楽であり、主たる音楽から二次的に派生するものである。また、クラブのVJとDJとでは、皆DJ(音楽)を目的とし、VJはその空間や体験のフィラー的な扱いにどうしても見える。そうしたよく見られる音と映像の主従関係に対しては明確にジャブを打っているように見えた。

作家自身の自由な解釈は、型を提案するようなキュレーションを否定するかのようで、結局は制約を自由と読み替えて純粋に自分の表現とそれを成り立たせるものに真摯に向かい合うという姿勢そのものが尊いのだと感じられた。


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