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フィードバックを「される」立場と「する」立場と。


今日で社会人3年目を終えようとしています。
転職を機に個人商店のような働き方から誰かと一緒に仕事をする働き方に変化し、そして徐々にフィードバックを「される」側から「する」側に。

大袈裟かもしれませんが、フィードバックを「される」立場と「する」立場では全く違っていました。「する」立場になった途端に「嫌われたくない」という気持ちを押し殺し孤独を引き受けなければならない時だってあると思います。それでも振り返って思うことは、どちらの立場も経験出来たこと、これ自体は個人的に良かったなと感じてます。

元々誰かにあまり物事を教えたり、フィードバックをしたりというのはものすごく苦手で。指摘だってできる限りしたくないと思っていました。(もちろん今その気持ち全部が払拭し切れているわけではないと思いますが)なので自分で仕事を進められるような環境は責任は全て降りかかってきますが、すごく気が楽でした。

ただ、何かに違和感を感じたときに何も発しないこと、それは「何か」から逃げているようで。そんな自分が好きではなかったのも事実です。

「私、もっと●●が出来るようになってみたいんです。なのでもっとフィードバックください!」
「〜〜を教えてください、お願いします!」

それは突然やってきました。

変えたいとは思っていたので「出来ない」自分を受け入れた上でちょっとチャレンジしてみることにしたのが始まりです。

本noteはフィードバック「する」ことがとっても苦手だった私が意識して少しばかり「苦」だと感じなくなったことを備忘録的にまとめてます(乱文です。)

◆ なぜFBが「苦」だったのかを考えてみた

ここでいうフィードバックは俗にいう「ネガティブフィードバック」です。 出来なかった要因は大きく2つあります。

1つ目は「嫌われたくない」という覚悟不足
人間なので、できる限り嫌われたくない、そう思っています。そんな私には全くと言っていいほど「嫌われてもいい」という覚悟は持ていなかった気がします。

「でも、それって「真の優しさ」ではないよね。相手を想っていないのと同じだよ。」


とある方に相談したときに言われた一言。まさにそうでした。

・何が駄目だったのか
・それをどうしたら良くなるのか

と、足りない箇所を見つけ出して改善へと導くことで、その人自身の成長に繋がる可能性があるのにそれを封じ込めること自体が相手にとって失礼に値する。

私は、嫌われたくないという覚悟を持てていなかったのと同時に、フィードバックした後きちんとフォローできないかもしれないという自分自身に対して示しをつけるという意味での覚悟もできていなかったのかもしれません。

2つ目は伝え方などの理解不足

「フィードバックしたいけど、どんな言い方したらいいんだろう…」

次なる壁はこれでした。

・起こった事象に対して、適切な答えがわからない
・どのように伝えれば納得が得られるのかがわからない
・「なぜそれがいけないのか」を明確に言えない、理解できていない

上記、適切な答えが分からないということに対しては自身のインプット量が足りないだけなのでそこは補うとして残りの2つは伝え方でした。

①自分の頭の中にあることをそのまま言葉にしないようにすること。
②相手の頭の中を想像すること

を意識することで補おうと考えました。

上記2点上げましたが、いずれにしても「相手のため」を思えてなかったが故に「苦」に感じていたのかもしれないと思います。

◆ フィードバック「する」立場に。捉え方・伝え方を考えてみた

・・・ただ、物は考えよう。せっかくの機会だしそんなに重く捉えることなく自分らしい方法でやってみようと。

 フィードバックする立場の自分は完璧でないということ

こんなことを言うと甘い考えだと思われるかも?しれませんが、フィードバック「する」前提に自分は完璧ではないことを認識してもらうようにしました。人間誰しも完璧ではないと思います。完璧ではないからこそ悩むことがあるものです。

ある事象を教える際にこのやり方だけが絶対に正しいとは考えていません。仮にあらゆる点で他人の模範にならなければならないとするなら、実際には完璧でないにしても、多くの人は少なくとも完璧な人間であるかのように装い続けなければないと考えてしまうのではないかなと思います。時にそれが負担になってしまいます。

もちろん最適解を見つけ、フィードバックをする前提ではありますが、この答えが必ずしも正解ではないということ、自分にだって苦手・不得意なことはあるということも伝えておくと随分気が楽になります。自分の不得意なことを得意な人も必ずいます。正しく相互理解した上で、難しい問題は、みんなでいきたいものです。


 「この方法が良いよ」ではなくて「こんなやり方もあるよ」

逆にフィードバックを「される」側、教えてもらう立場も頻繁にあるのですが(その方が多い)その時の気持ちになって考えた時、どうだったか。

「Aというやり方は絶対」という伝え方よりも「Aという方法もあるよ」と指し示していただける方が個人的にはその後のアクションを思考しながらできたな、と振り返って思いました。

どんな仕事もそうかもしれませんが、「解」がないものの方が多いかもしれません。それに対して先人の知恵を求めて当たり前のように聞きにいくのですが、振り返って思うのはそんな時に正解を教えてもらうのではなく、「自分の考えは?」「その事象に対してどう思うの?」と言われ嫌でも思考することが出来ていたのはとてもありがたかったなと思います。

もちろん時と場合によりますが、先述した通り自分の伝える内容全て、教える内容全てが正解ではないこともある可能性もあるのでどうせなら共に正解を見つけ出していけるような関係性でいるのが良いなと。もし一緒にできるようなないようであれば「手の届くギリギリの野心的目標」を共に追いかけていきたいなと思うようにしました。


◆ ・・・それでも迷うことはある。そんな時は

それでも迷うことはあります。というか迷うことだらけです(笑)そんな時私にとっては立ち返る「何か」が必要で。その「何か」について。


 配慮は大切。でも「遠慮」は時に失礼になるということ

遠慮して言うことを我慢した時、結果的にそれは誰にとっても良くない・不幸な状態になる可能性があります。一方で前提として配慮すること、尊敬をすることはそれ以上に大事だと思っています。

『遠慮する』
  ・人に対して、言葉や行動を慎み控えること。
  ・ 辞退すること。また、ある場所から引き下がること。
     ・・・つまり、自分基準での捉え方。

『配慮する』
  ・心をくばること。心づかい。
     ・・・つまり、相手基準での捉え方。

大事なメンバー・仲間であるのであればなおさらですが「お願い」も「フィードバック」も相手基準で考えられているかを何か口に出す前に立ち返るとどんな行動をすべきかがなんとなく見えてきました。


 率直で役に立ち、かつタイムリーなフィードバックなのかということ

今から自分が口に出そうと思っているこのフィードバックは率直で役に立つものなのか?上記同様に相手の役に立つのか否かを考えることは重要です。相手の目標に対して直接関係のあるフィードバックであるのか?関係ないのであれば混乱したり、目標を見失ったりします。率直で相手の役に立つのであれば、細かいところまで頭の中で鮮明なうちに、すぐに(タイムリーに)を。迷った時には振り返るようにすると個人的に少しずつ分かってくるなと。

これまでほとんどフィードバック「する」側ではなかったので考えたことすらなかったのですが、フィードバックの「方法」、「手法」は多々ありました。それでもこれが正解なのかはいつでも迷います。

ただ、何事も「出来ない」自分を受け入れた上で改善ができるんじゃないかなと思ってます。フィードバック「する」と言うと上下関係があるように見えてしまってましたが、あくまで対等に「私」と「相手(あなた)」で「問題」に向き合うために行うものなのかもしれないなと。

明日から始まる社会人4年目もまだまだ頑張ろうと思います。


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