「事務」と「義務」

坂口恭平さんの『生きのびる事務』を参考に、一日の時間割をつくって、それの通りに行動することにした。

ところが、外出や来客の予定があったら、その日は時間割通りにはならない。特に予定がなくても、眠気や暑さに負けて予定通りにならない日もある。
時間割通りにパソコンに向かっても、「〇回読まれました」と知らせるモーダルウィンドウや、通知を見るのが地味にストレスで、noteを開くのも嫌になっていた。それに、noteの編集画面を開いても言葉は思うように出てこない。そうして、時間だけが過ぎていく。「書けていない」と焦る。
予定通りにできないと、「できなかった」と落胆する。できていない自分と向き合うのが憂鬱で、さらにその時間割から遠ざかっていく。結果、継続しなくなっていく。

こうも「~ない」とか、ネガティブワードが続くと良くない(あ、また…)のでこのくらいにしておくが、これが書き始めてから1週間くらい経ったときに感じていたことだ。

振り返ってみれば、神経症的だったと思う。
まぁ、新しく習慣を始めるにあたって身構えるのは仕方がない。
私は物事を義務的にとらえたり、「べき・べし」「~ねばならない」で考えたりするところがある。数年前と比べて、最近はそういう思考の傾向が薄まってきたと思うが、それでもまだ根っこには残っていて、言葉のうえでは否定しても、行動や感覚にはしみついている。それのせいで、自分の好きなことをするための「事務」が「義務」になってしまい、「義務」が果たせなくなったら、その好きなこと、つまり、書くのもやめてしまうところだった。

しかし、今日、書くのをやめていないのは、正直なところ全くわからない。
躁鬱のようなものなのかもしれない。義務意識を働かせる自分が眠っているのかも。それか、単に時間割通りにできないことに慣れてきただけかも。
いずれにせよ、また、こうして書けているから、それでいいことにしてしまおう。ハハハ。やはり躁状態なのかもしれない。

それでも一応、今日書き続けられている理由を考えてみると、9月からフランスの滞在記を書く前のウォーミングアップとして書いているという意識があること、すなわち、滞在記を書くまではやめられないという義務意識が背後にあるのかもしれない。友人の皆さんに、滞在記を書くつもりだと公言している手前、始まる前にやめるわけにはいかない。ポジティブな義務意識。

それから、この6日間は8月11日を除いて、毎日来客や外出の予定があり、毎日時間割通りに行動することの諦めがついたというのも、書くことを再開できた理由になっているとも思う。
来客・外出という、ある意味どうしようもない理由で書けなかったのであり、自分の怠惰が理由ではないということ。そのおかげで、書くのを再開するのに罪悪感めいたものを感じずにいられた。

昨日書き始めるにあたって、「ただ「書いてないなぁ」と思っていた。それが段々と「今日も書かなかった…」に変わりそうな気配を感じ」と書いた。それはそうなのだが、同時に「「そろそろ書こう」という気」になってもいた。

「書こうかな」「書きたいな」という気になったら書けばいいのだということに気づいた。なあんだ。単純なことだ。レポートや論文を書いているわけでもないし、提出義務も締め切りもないのだから。

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