トランク——富山行顛末 (一)

縁があって、一人で富山に行った。富山市でやる仕事があったのだが、前乗りして高岡市に足を延ばした。高岡は好きな街だ。おれが生まれた一年後に亡くなった藤本弘=藤子・F・不二雄が上京までを過ごした。子供のころから、藤本の単行本にかならず記されている「高岡市生まれ」という略歴を見ては、いったいどんな街なのだろうと思っていた。それで、ちょうど一年前、同行者とともに訪ねた。あまり時間のない今年の旅程に無理をして高岡を入れたのは、その記憶が鮮やかに残っていたからだ。

一年前の高岡は冬だったが、今年はまだ秋らしい空気を残していた。駅から足早に北東へ向かうと、すぐに藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーについた。市の美術館の中に常設されている小さな展示場だ。藤本の母校・高岡工芸高校の隣にある。

展示室に入ってすぐのところに、藤本のポートレートがあった。トレードマークのベレー帽をかぶって小首をかしげているものだ。皺や染みの様子からして晩年のものだと判断したが、大きく引き伸ばされたそのディティールは却ってぼやけ、微笑みをたたえた目ばかりが瞭然と浮き上がっており、あたかも、何枚かの写真で見たことがある青年の頃の顔のようになっていた。おれは咄嗟に、この人は夭折だっただろうかと錯覚した。

自宅でペンを持ったまま斃れたときこの人は六二歳で、それを早すぎる死と言う人もあるが、けれどもおれは、数万枚の原稿をなし、それらのいくばくかがアニメにもなって愛されるのを見届けた藤本を、若死の人だと思ったことは一度たりともない。ポートレートに不意に浮き出た青年のような顔をつかまえて、この人は最後まで初心を身に宿し続けたのだろうという能天気な空想をひろげる気にもならない。やわらかな表皮の一部分が緊張で凝り固まって周りから浮き出ているかのような、その意外な顔つきが、青年の印象をもたらしているという事態に、おれはただ、会うことのなかったこの人の一つの表情を発見する思いがした。生前の藤本とまみえた人の中にも、彼の顔に隠れているこの表情を見た者が、何人かはいたのだろうと思えば、その誰かと秘密を共有したような気にもなった。

藤本の表情を胸にとどめながら歩きだすと、愛用品の展示に行き当たった。複製原画ばかりのギャラリーだが、こういう品が出ているのはうれしい。その中の一つに足が止まる。「上京カバン」というキャプションのついた古いトランクだ。藤本が亡くなった後、自宅から発見されたものだという。没するまでだれもこのトランクの存在を知らなかったが、上京の際に持っていったものではないか、と解説されていた。トランクといっても、本や洗面道具を入れたらすぐに閉じなくなってしまいそうなもので、いったい何を入れていたのか、不思議な印象を放っていた。革は擦れてところどころがペンキをべっとりと刷いたように白くなっていた。蓋の縫い目は外れ、その部分の革は疲れてべろんとゆるんでいる。その蓋についている二か所の鍵がまた小さく、だからおれは、中村草田男の若書きの句〈鴨渡る鍵も小さき旅カバン〉という句をすぐに連想した。第一句集『長子』(沙羅書店、一九三六)に収められている、「北海道旅中」という前書きがついた三句のうちの最後の句だ。

藤本のトランクの前に立ち止まりながら、あの地味な鳥が北方から渡ってくるさまを想像した。その鳥は夜空を飛んでいた。夜空には星がぎっしりと見えた。突然見え始めたその星の数におれは驚いた。なにゆえに星を想像したのだろうかと考えてみると、ああこれは銀河なのだなと思い至った。安孫子素雄=藤子不二雄Aが描いた自伝漫画『まんが道』をかつてNHKが実写テレビドラマ化したが、そのときの放送枠が「銀河テレビ小説」なのだった。脈絡のない連想にもたらされた星々の光は、貧しいおれの想像力にとっては僥倖だった。その星々の光はうるみながら押し寄せ、遠近法を失った風景の中で、鳥はその光の中を滑空していった。おれは、光に紛れあう星々の中で、たった一つでもいいので、星そのものの姿をくっきりとみることが、鳥にあるだろうかと思い、あれよと願った。藤本がトランクを提げて高岡を飛び出したとき、彼の頭上に広がっていた、その星の姿を、だ。

にわかにおれの中に現れた風景の中では、やがてこのトランクに「上京カバン」というおそらくは『ドラえもん』のひみつ道具を意識した名前が与えられることを、藤本も鳥も知らない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?