象は歩く——富山行顛末(三)

高岡市立博物館に、子供向けのこんなクイズがあった。

高岡古城公園には、藤子・F・不二雄先生と藤子不二雄A先生が、マンガのアイデアや将来の夢を語り合った場所があります。それはどこでしょうか?

(1)本丸広場の北にある児童公園

(2)中の島

(3)ふたつ山(相撲場があるところ)

答え:(3)ふたつ山(正しくは卯辰山といいます)

答えは知っていたし、行ったこともあったのですぐに分かったが、おれはその山のことを卯辰山と呼んでいた。標識にも卯辰山と書かれてある。その山が博物館の中で「ふたつ山」と呼ばれていることにおれは驚いた。訛ったのか、あるいは音だけ聞き取った子供らが勘違いしたのか、おおかたそのような経緯なのだろうが、博物館の展示でもそう呼ばれているということは、ある程度は定着している名前なのだろう。

博物館を出て徒歩二分ほどで、その山には着く。射水神社の裏にある小さな築山だ。ちょうど七五三の時期なので、神社のほうには子供らがたくさんいたが、手前で曲がって入る山のほうには誰もいなかった。裾のところで土俵が雨ざらしになっていたが、大量の蚊取り線香が半ば新品のままに打ち捨てられていたので、まったく放置されているわけではないのだろう。その小さな山をうろうろとしながら、どう見てもいただきは一つだよなあ、と思う。

卯辰山をふたつ山と間違えたとして、いったい、この山で遊んだ子供らは、築山が二つ並んでいるわけでも、いただきが二つあるわけでもないことに、気づかなかったのだろうか、と想像し、カンのいい子はわかるよなあ、と思う。この山がどうして「ふたつ山」と呼ばれているのか、ぼんやりと疑問に思い、けれどもその疑問の正解を知らないまま、うかうかと過ぎてゆく、その子の少年期が、濡れそぼつ秋草を足で払いながら歩くおれの目の前を、かすかに横切る。

おれのnoteやTwitterを読んでいる人ならそろそろ察しているだろうが、人々の記憶などと呼ばれるものに、おれはめっぽう弱い。決して自分のものにはならないけれど、ある瞬間に、きれぎれになりながらも、おのれの目の前に、あざやかにあらわれる、誰かの記憶に。

先述の動物園の隅に、資料室があった。埃をかぶった動物の剥製がぎっしりと並んでいてぎょっとした。高岡市の生態系を紹介するものらしかったが、いくつか、かつてその動物園で飼育されていた動物も混じっていた。そのうちの一つに茶色くくすんだ歯をさらしている雌ライオンがいた。

昭和42年2月伏木港へ入港したソ連船、船長ノーマンドブカル氏が寄贈したもので、フランスの名女優ブリジット・バルドの愛称からバビッタと名付けられていた。昭和54年11月死亡まで12年9ヶ月間小供達のアイドルとして親しまれ、当動物園で飼育されていました。(同剥製解説)

ああなるほど、ブリジッド・バルドーが華々しく銀幕を飾っていた時代か、と思う。

それにしてもバルドーは「バビッタ」という愛称で呼ばれていたのだろうか。聞いたことがないし、検索してみても、このライオンの剥製のことが出てくるだけだ。もしかしたらロシアふうの略し方なのかもしれないな、などと思いつつ、このライオンに見た人々の夢の数に、ちょっと胸がこみ上げる。公園の中で、切符も切らずに開放してある、ささやかな檻を集めただけの動物園にいたライオン、そのライオンを囲むにぎわい——この古くて小さな町にやってきたバビッタ、それが女優の名前だと聞いて、女優の美貌を思い出した誰か、バルドーなんて女優を知らないままバビッタと出会い、愛した子供たち。

それにしても、ずいぶんと古めかしい動物園だ。気になって高岡市内の図書館で調べたけれど、いったいいつできたものなのかは、どこにも書いていない。

そのかわり、昭和二六年のこの公園に、象が来ていたという記述は見つけた。昭和二六年に、高岡産業博覧会というのが開かれていたのだ。「我が国の豊富な電源力と、これを根幹とする産業の全貌を紹介し、併せて地方産業の振興と文化の向上を図らんとする」ことを目的に、美術館や動物園を含むさまざまなパビリオンが設けられた。この臨時動物園にタイから来た花子という象がいたらしい(高岡市市政一〇〇年記念誌『たかおか 歴史との出会い』平成三年より。以下の高岡産業博覧会の記述も同様)。このときの動物園があんがい現在の動物園の源流なのかもしれないが、さておき、戦後六年という年にこのような博覧会が開かれているというのは、非常に興味深いことだ。

海外からは唯一「アメリカ館」というパビリオンが設けられていることも象徴的だと思うが、おそらくは、戦後復興の象徴としての意味合いが強いイベントだったのだろう。もともと博覧会というものは、明治期の使節団が海外でその存在を知り、日本の近代化の象徴として長らく夢想していたもので、万博は一九七〇年の大阪万博まで待たなければならないが、小規模な国内博であれば、明治期からすでにいくたびか催されている。博覧会を開催することが産業力の証明だったのだ。

高岡のパビリオンには「テレビジョン館」というのもある。北陸地方初公開のテレビだったそうだが、いったい何を映していたのだろうか。というのも、日本のテレビ放送はこの翌々年にあたる昭和二八年に始まるのだ。まだ全国放送の電波は飛んでいない。専用の番組を作っていたのだろうが、とかく、最先端も最先端の技術をお披露目する場所だったのだ。余談だが、テレビというもの、先年刊行された森田創『紀元2600年のテレビドラマ』(講談社)によると、すでに日米開戦前夜には実用化寸前まで研究が進んでいたらしい。それが開戦によって電波統制の憂き目に遭い、戦争が終わるのを待たなければならなくなった。そういった意味ではテレビという装置はきわめて戦後的な代物なのだ。

ところで、どうしてこんな博覧会について関心を持ったかというと、実はふるさと旭川市でも、昭和二五年に、北海道開発大博覧会という博覧会が開かれているからだ。何年か前、郷土史でも忘れられたこの博覧会を掘り起こそうとしている、地元の博物館の学芸員から、直接話を聞いたことがある。開催場所はやはり市内最大の公園・常盤公園。いま、常磐公園の築山の上には誰も使っていないおんぼろの天文台があるが、これは博覧会の時に作ったものなのだという。

家に帰って、「こんなんあったの知らなかったな」と、その頃はまだ生きてパークゴルフに精を出していた祖父に話すと、「それ、ちょっと覚えてるぞ」というので驚いた。「象が来てな、象なんて初めて見たから」と祖父は言った(とにかく、イベントには象が来るものなのだろう)。当時一〇歳にもなっていない祖父が覚えていた象の姿を想像して、ちょっと胸が熱くなった。象がその後どこへ行ったのかは知らない。旭山動物園が開園するのは一七年後の話だ。

ゆくえの知れない常磐公園の象を、高岡の図書館の奥で不意に思い出した。その象はおれの胸の中でしぜんと高岡の花子に重なった。象の姿は想像がつくが、その周りの風景はわからない。戦争が終わってようやっと活気づいてきた旭川や高岡の景色をおれは知らない。そのころの檻のつくりがいまと変わらないものだったかどうかも知らない。だから象は歩き出す。ぼんやりとした街並みに、ときおり誰かにとってのふたつ山や誰かにとってのバビッタの檻が、なにゆえにか鮮明に立ち現れる中を。

(富山行顛末これにて完)

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