時としてある俳句大会実施記録

〈中七「時としてある」〉という俳句の題を思いついたので、「時としてある俳句大会」を開催することにした。専用のハッシュタグを作り、投句数無制限、よほどの数じゃない限り全句講評、締め切りは一晩(昨日の夜に告知ツイートをして、締め切りは今日僕が起きるまで)という内容でやった。難しい題だしせいぜい一〇句と踏み、万が一に三〇句くらい集まったとしてもそれくらいなら全句講評しようと考えていた。ところがどっこい、見る見るうちに句数は膨れ上がり、夜中にはハッシュタグがトレンド入りする始末、そうなったらもう俳句なんて普段やらないと思われるユーザー諸氏のご参加も賜ることとなり、最終的にはのべ二五三句の華やぎと相成った。もはや「よほどの数」であることはだれの目にも明らかで、数日かけて全句講評をやっているうちにネタの鮮度が落ちることを思えば、僭越ながら選をほどこすこと致し方なく、自分で開いた大会の選者を自分で務めるなんて噴飯ものなのは百も二百も承知だが、遊びということで読者諸氏にはご海容いただきたい。

ただし面白い句を拾っただけでもたくさんあるし、作品に優劣をつけたくもない。したがって、〈中七「時としてある」〉をどう処理するか、という与題を僕なりに考えながら、その思考の道筋の中で句を読んでいくという方法を取ることにする。

なお句と作者名をちまちまとコピぺするのが億劫だったのですべて手打ちした。引用ミスが出ないように努めたが、もしあった場合にはお申し出ください。

この題を思いついたとき、想定される句の型には何パターンかがあるな、と思った。一つ目は上五が「に」で終わる一句一章の句である。

世の中に時としてある土筆かな/内橋可奈子

この句がそれにあたる。ちなみに、この句に関してだけいうと、全二五三句の中でもいちばん好きだった句だ。四季の巡りの中で、春先、いつの間にか土筆が生えていることに気が付く瞬間がある。土筆が春の訪れを知らせた、という捉え方をすると陳腐になるところだが、それをずらして「時としてある」としているのだ。俗情を排して「時としてある」といういけしゃあしゃあとした物言いをしているのが巧みで、「世の中」という俯瞰の表現とも合っている。「時としてある」という題をうまく詠み込んだ句だと思う。

この型の他の句には、

眼病に時としてある春の椅子/爽風
この星に時としてある 時間/伊藤他界
淡雪に時としてあるかどはかし/松本てふこ
うたた寢に時としてある蝌蚪の紐/燕
ブラウスに時としてあるミモザかな/くるは
青春に時としてある刃物かな/青春の勝者(2代目)

などがある。Aというものの中にBというものがある、という構図と理解すればいいだろう。〈眼病に時としてある春の椅子/爽風〉は目に椅子が映っているのだろうか、患者が椅子に座っているのだろうか、さまざまな解釈ができそうだ。「椅子」というのは人の社会的な立ち位置を象徴していると読んだ。「椅子」というのはある空間における、人の着くべき位置である。この句では、病んだ者が、病んだがために、病んだ者のための場所に立たざるを得なくなっているのだ。「春」の語感からして、何らかの癒しの場ではあるようだが。とすれば「時としてある」というのは、病という苦痛にいっとき差す光明かもしれない。

〈この星に時としてある 時間/伊藤他界〉は〈草二本だけ生えてゐる 時間/富澤赤黄男〉の本歌取り。「時」の字を重ねつつ、意味をずらすことで複雑な把握をしている。〈淡雪に時としてあるかどはかし/松本てふこ〉〈うたた寢に時としてある蝌蚪の紐/燕〉の二句は、「時としてある」という、言ってしまえばどうとでも取れる表現を上五と下五の蝶番として、意外な言葉を出会わせている点が面白かった。この手法は〈眼病に〉の句にも言えることである。〈青春に時としてある刃物かな/青春の勝者(2代目)〉は、まあよく分かるし、こんなふうに単純な抽象表現でイメージを描くというやり方もあるとおもうが、同じ題材なら角川春樹の〈晩夏光ナイフとなりて家を出づ〉の方がいいと思う。〈ブラウスに時としてあるミモザかな/くるは〉はブラウスにミモザの花がついているのか、木から花を取ってきて服につけているのか、そのようなことだろうが、「時としてある」でそのへんをぼかしているのがいい。詳しく書かないことで日常の些事を異化した句である。

またこの型に類似するものとしては、

しっぽにも時としてある春のゆめ/杉山理紀
なずなにも時としてあるフォルテシモ/yen

という、〈にも〉を用いたものがある。ふつう俳句で「にも」を用いるときには、「に」と比べて、発見を強調するような感じになることが多いような気がするが、掲出句は、発見は発見でも、自分しか知らない不思議な発見といった趣になっている。

上五が「の」で終わる一句一章の型も考えられる。この場合まず、

含羞の時としてある春の文/トオイダイスケ
結腸の時としてある姫始め/はんぺんたなか
文字化けの時としてある春の星/えんどうけいこ
自販機の時としてある絵踏かな/ごしゅもり
ものの芽の時としてあるものの中/hashimotosunao

といった、一物仕立ての句がある。「の」が主格として働いている句である。〈含羞の時としてある春の文/トオイダイスケ〉は「春の文」というむちゃくちゃな季語を「含羞」という言葉によって説明してみせた句。「春」の気分に、一瞬のはじらいを見出したのである。〈文字化けの時としてある春の星/えんどうけいこ〉の「文字化け」とは、星が瞬いて見える瞬間の印象だろうか。〈自販機の時としてある絵踏かな/ごしゅもり〉は絵踏をしているときに自販機が見えたという。シュールなようでいて、句の主体にとっては妙に生々しい視界だったのではないだろうか。〈ものの芽の時としてあるものの中/hashimotosunao〉はこれ、僕、かなり好きな句で、「ものの芽」という季語の言い回しがあるけれど「もの」っていったいなんやねんよ疑ってみたわけですな。

〈結腸の時としてある姫始め/はんぺんたなか〉は、まあ読んだ通りなんだけれど(時としてある、のしれっと感がウケる)、これはもしかしたら、〈時として結腸のある姫始め〉とか〈時として結腸のあり姫始め〉とかの語順にしたほうが日本語としてはすっきりしたのではないだろうか。まあ題だから仕方ないのだが、題を最大限に活かす(=その言葉が動かない)というのは、題を扱う時にたいせつなことなのであります。

上五が主格の働きをしているということでいえば、

響むこと時としてある蝶の空/生駒大祐
手折ること時としてある春の虹/土井探花
芍薬が時としてある暗さかな/新堀未夏

もここに分類できる。

〈響むこと時としてある蝶の空/生駒大祐〉の「響む」は「とよむ」と読んで、まあ「響く」と同じくらいの意味。富澤赤黄男の〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉のパロディですが、漢語を畳みかける原句のゴツゴツ感に対して優美な印象で書いているのがキモ。で、この句と全く同じ型なのが〈手折ること時としてある春の虹/土井探花〉で、これは虹を手折るという空想のアンビリーバボー性(どんな用語じゃ)を「時としてある」で和らげている。題を効果的に用いた例と言えそうだ。ところでこの二句、上五が主格の働きをしているとはいえ、形式的には上五が名詞で切れている。お気づきの方もおられるでしょうが、この題だと中七が「ある」という連体形になっているため、一物仕立てで、かつ下五に切れ字が来ない場合、切れを入れようと思ったら上五しかないのです。ものによるとは思うけれど、もし一物仕立てで下五に切れナシのパターンの場合、上五に切れがないとどうにも句の調子が平坦になりがち。それをこの句は「こと」で切ってうまいこと句に緩急を与えている。

〈芍薬が時としてある暗さかな/新堀未夏〉は助詞が「が」。なぜ芍薬があるのか、時としてあるとはどういうことか、説明をまったく省いてただ芍薬を見せ、しかもそこに、それは暗いのだという意外な把握を提示する。立派な句だと思う。

さて、もうひとつ、上五が「の」で終わる句には、取り合わせも考えられる。

春宵の時としてあるつまようじ/mk4n

がそうだ。たしかにつまようじは、いつもあるわけでもなく、かといっていちいち探したり買ってきたりするものでもなく、いかにも「時としてある」というものだ。けれども明らかに「時としてある」というわけでもなく、絶妙にニッチ。

いろんな「時としてある」ものを読んで思ったのだが、明らかに「時としてある」ものを句にしても、「あ、たしかにそういうことあるよね」というあるあるネタ止まりになるのではないか。

霾や時としてある独裁者/津野利行
恋の猫時としてある思いやり/yamauchi_t
苗札に時としてある誤字脱字/Takechi Shinobu
褻衣を時としてあるポロリかな/micchan
春雷や時としてあるゴムのあな/由野

どれも、ベクトルは違えど、時としてありすぎるような気がする。むろん、それを面白がれないのは僕の趣味であって、ゴムに穴があきがちなことの面白さは、むろん、分かったうえでのことである。このへん、普段俳句を読むときにもぶち当たる課題なのよね。

話を戻すと、取り合わせの句である。取り合わせといったら、「の」よりも「や」がメジャーだろう。「や」で切って、時としてあるものが下五に出てくるパターンである。

ささくれや時としてある夜半の春/井口可奈
雪華や時としてある山岡家/村上海斗
春寒や時としてある茶筅髷/石原ユキオ
春風や時としてある生きと死に/山本計

〈ささくれや時としてある夜半の春/井口可奈〉は、「夜半の春」という形のない、そして、時間の幅を持つものが「時としてある」のだと言って見せたのがすごい。〈雪華や時としてある山岡家/村上海斗〉は、前出の「つまようじ」と同じく、絶妙に「時としてある」ものをチョイスしているのがいい。逆に〈春寒や時としてある茶筅髷/石原ユキオ〉は「いうほど茶筅髷って時としてあるか?」という斡旋なのが笑える。

〈春風や時としてある生きと死に/山本計〉は、「生き」という語が生硬だし、中七下五が、ちょっと洒落たアフォリズムに過ぎない感じがするのだが、しかしですよ、僕は、このタグを公開したあと、いの一番に山本さんが〈春風や時としてある生と死に〉とツイートして、それを消して〈春風や時としてある生きと死に〉に直しているのを目撃したのだ。いや、最初の句の方がええやん、と思った。初案の「に」は格助詞の「に」で現行案の「に」は「死ぬ」の活用語尾ということになる。初案の方で読むと、生と死という観念的なものに春風が吹き付け、そう書かれることによって、生と死が可触的なものになる、その言葉と観念の往還がスリリングで、絶対こっちのほうがいいって。

さて次は、上五が名詞切れというパターンである。これはすでに説明したパターンと重複している性質も多いのだが、上五で切れることによって、上五を主題とする題詠のように見える点で特徴的。

くすむ地図時としてある春の海/麦野結香
ブス巨乳時としてある熱視線/膣ギロチン
エロ動画時としてある中国語/裏庭の虚数
ドラえもん 時としてある SF回/しゅ~へ~

〈くすむ地図時としてある春の海/麦野結香〉は、古ぼけた地図に書いてある海は春の海だという奇想の句で、「くすむ」が霞や朧がかった春の空気を連想させているのがいいなあ。

〈ブス巨乳時としてある熱視線/膣ギロチン〉は……誰やねん膣ギロチンって!!!!!! 衝撃の俳号で、Twitterを見るかぎりたぶん屍派の方なのだろうが、クレイジーすぎやろ……というのはさておき(触れずにスルーする器量はなかった)、「ブス巨乳」というパワープレイの名詞の置き方に手柄がある。ブス・巨乳、と一拍おいて読むのではなく、一語として読むのがいいだろう。ただし、「熱視線」という複合語とぶつかるので、言葉の流れの良さを考えると〈時として熱き視線やブス巨乳〉としたほうがいいかもしれない。同じく〈エロ動画時としてある中国語/裏庭の虚数〉もしょーもない内容だが、ネットでエロ動画を閲覧する人ならお分かりの通り、エロ動画に中国語はしょっちゅう出てくるので、「時としてある」は嘘だろ、というおかしみがある。

僕は「ドラえもん」が好きなので〈ドラえもん 時としてある SF回/しゅ~へ~〉も取り上げておこう。「ドラえもん」は長編でない日常回でも、たまに、道具の効果を活かした、センスオブワンダーな、短編SF仕立ての回になっていることがあるのである。ところでこの句、五七五の切れ目にスペースが空いている。おそらく普段俳句を書かれない方と思うが、ふつう俳句では五七五のリズムの切れ目にスペースを入れないでずらずらと書く。意味がどこで切れるのか考えるのも俳句を読む楽しみなのだ。もっとも、前出の富澤赤黄男〈草二本だけ生えてゐる 時間〉のように、あえて空けることで効果を出す手法もある。富澤の句の場合、字足らずであることを視覚的に表現しているし、この空白に「時間」という見えないものを見て取っている感じもある。

つづいては、典型を避けた技巧派の句。

今で手が時としてある凧の紐/宮﨑莉々香

「今で」の「で」はすでに用例の多い修辞だし、当人も新しみのつもりでやっているわけではあるまい。眼目は「手が時としてある」で、自分の手が、時としてある(=ないときもある)と感じられる身体の希薄さを言っているのだ。凧の紐は細く、また強い力で動くので、手を句の主体から遠ざけているのかもしれない。

梅や火の時としてある高き夜/坂入菜月

梅咲く夜に火を目撃し、ないしは幻想したのだろう。何の火か判然としないが、ただ「火」という素朴な言い方をしている点、「夜」の闇とも相まって原始的な「火」のイメージが喚起され、それゆえに、「梅」という具象が異質なまでに際立つ。「高き」がいまひとつ読み切れなかったのだが、ひとまずは空の高さの謂いとして理解した。その果てしなさからは、この夜は終わらないのではないかという一瞬の不安も、「火」の原始的な恐怖も踏まえて連想していいだろう。

春やぜんぶ四時としてある壁時計/アルフォンス伊集院

題には〈中七〉という指定があるが、「時」の読みは指定しなかったし、他の字を入れてはならぬという書き方もしなかった。この句、中七に「時としてある」がきちんと入っているのである。「や」という文語脈の言葉の直後に「ぜんぶ」というバリバリ口語脈の言葉が来る感じがファニー。

この手のやり口は、

あゝ目借時としてあるまなこかな/やなぎもとゆうた

も同様である。「あゝ」で音数をごまかしているのは、中七に「時としてある」を入れるという原則に忠実であるがためのことだ。

おっと、

RG 時としてある ある言いたい/バーッド・マン

というのもあった。RGがあるある言いたいのはいつものことやけどな。

きくのやで時としてあるぱかもらう春/開

というのは僕の学友の句で、普段俳句をやっているわけではないが、僕のTwitterを見て作ってくれたのだろう。「きくのや」というのは僕と開君が入っているサークルでよく行く小料理屋である。うれしい挨拶句だ。一個文句をつけるとしたら、途中で字余りになっていて、「中七」という条件を満たせていないことになる。

啓蟄や時としてアルマジロ食う/佐々木貴子

など、「時としてある」の字面を詠み込んでいない句も惜しい。細かいことを言うようだが、題とはそういうものだ。「時」が漢字で出題されている以上、音ではなく字を詠み込むものと理解していただきたい。ただしこの句、アルマジロなんて食ってるやつが誰で、どういう状況なのか、説明を放り投げているシュールさはちょっと好き。

時としてあるいはパパとしての春/照子

これは上五に「時として」を置いた句で、やはり題に即していないということになる。時として(季節として)の春と、父親であるということを強く意識することになった春、まったく位相のちがう二つの春を、さもねじれていないように並べているのは面白い。

さて、そろそろお別れの時間である。この句にも触れておこう。

カレー屋で
時としてある
ナン余り/本格ネパール・インド料理 サラムナマステ

店で出しているカレーとナンの写真が添えられていた。とんだ宣伝である。しかも0時も過ぎたあたりにツイートされていて、こちらは飯テロを食らうことになってしまった。

きちんとしたナンはけっこう大きくて、うまくペース配分をしないと余ってしまうことがある。おまけに親切なカレー屋では、ナンがお替り自由のことがあって、頼んでいないのに勝手に新しいナンを持ってきてくれることもある。「あるある」の句だが、宣伝のための俳句なら共感性が高いほうがいいだろう。

ただし「ナン余り」という言い方は、五七五の定型を守るためとはいえ、ちょっと日本語として窮屈な感じがする。〈時としてナンが余るやカレー店〉とか〈カレー屋のナンはときどき余りけり〉、そんな感じで推敲したらどうか。

ちなみに、

カレー屋乱入時としてある春北風ぞ/関悦史

という関さんの句は、この椿事を書いたもの。「春北風」は「はるならい」と読むのがよい。わざわざ「ぞ」を足して字余りにしているのは、上の「カレー屋乱入」という大幅な破調とバランスを取るためだ(「はるきた」と読んで定型に収める手もあるが、むしろこの理由で「はるならい」と読みたい)。

さて、全句講評というわけにはいかなかったが、出てきた句のさまざまなタイプに触れることができたので、いちおうこのへんにしておく。

いろいろ見て思ったのが、題を詠むという行為は、単にその題が入っていればいいというわけではなくて、その題が効果的に用いられていることが肝要になるのだろう。絶妙に時としてあるもの、いうほど時としてあるわけではないものだったり、逆に、いつもあるもの、そんなものを選んだほうが面白いこともある。また、「時としてある」という措辞があってもなくてもそんなに意味が変わらない(上五と下五でちょうどいい情報量なのをうまいこと引き伸ばしている)という句も、実はけっこうあるのである。

それから、表現の問題として、「時としてある」が上五と下五のどちらに掛かっているのか判然としないものが多かったのは気になった。上五が用言や助詞なく終わる場合、つまり、いわゆる三段切れに陥っている場合にそうなる。文脈で判断できるものもあるが、それができないものは読めない。

と、こんなふうに、いろいろと真面目に考えていたら一日が過ぎてしまった。やっぱりいいお題だったなあ。

参加してくださったみなさん、ありがとうございます。

以下、全作品(順不同。上に引いた作品は除いた)

金時に時としてある豆な時/羽沖
沈丁花時としてある忌引かな/松本てふこ
料峭や時としてあるだし醤油/松本てふこ
墨磨りて時としてある水の春/えいみ
ホワイトデー時としてある人違い/徳山雅記
アネモネの時としてある塗り残し/かるか
幸福も時としてある犀星忌/yen
春雨に時としてある呪術のこゑ/爽風
鱒の中時としてある万国旗/爽風
かをること時としてある春の星/土井探花
白つばき時としてあるおとし穴/〓〓
春の夜の時としてある頭蓋かな/Maika Mori
春の夜を時としてあるきだす貝/やなぎもとゆうた
海の歌時としてある酒場の秋/かなでるさん。
ファウストに時としてある契りかな/伊藤他界
シアトルに時としてある春の雪/Hideki Iba
花かげの時としてあるましろかな/かものはし
蛞蝓の時としてある血小板/海螺
啓蟄の時としてあるVAMORA!/海螺
春雷に時としてある痩金体/石原ユキオ
遠足で時としてある俳句会/幾恋良石
枕にも時としてある恥ずかし毛/冬美
時としてあるに甲羅は乾きゆく/柴田有理
啓蟄や時としてある浮気虫/幾恋良石
春あらし時としてある休符かな/阿久津歩
おばちゃんに時としてある狂い咲き/宮坂変哲
目借時時としてある死をわすれ/津野利行
突出しに時としてある白魚和/津野利行
逃げ水や時としてある勘違ひ/津野利行
汽車を待つ時としてあるなごり雪/津野利行
忖度も時としてある初桜/yen
啓蟄や時としてある朝寝坊/yamauchi_t
春泥や時としてある落し穴/東海林一世
啓蟄や時としてある列車遅延/桜電子
亀鳴いて時としてあるバタフライ/匙太
時としてアルツハイマー春炬燵/じざす
亀鳴くや時としてあるスターダム/ヤギさーん
白野原 時としてある 人集う/四季凛々
薄氷や時としてある出来心/えんどうけいこ
春浅し時としてある塩対応/えんどうけいこ
啓蟄や時としてある万馬券/海月漂
梅咲くや時としてある里帰り/海月漂
鴇巣立つ時としてある鬨の声/佐々木貴子
時トシテアル君ガ代ノ揚羽蝶/佐々木貴子
春光や時として君あるまじろ佐々木貴子
白壁に時としてある春の泥/藤幹子
囀や時としてあるクーデター/Takechi Shinobu
AI(駄句製造機)に時としてある名句かな/青春の勝者(2代目)
揚雲雀時としてある大気圏外/川崎真樹子
恋猫の時としてある憂鬱/peach
暗号に時としてある春の空/にしかわかせん
造り過ぎ 時としてある ナベ移し/樹
入浴中 時としてある 謎の視線/ヨッシーだ
冬すぎてー、
春来にけらし
黒妙のー
わが衣手にー
鼻汁降りつつ/ぷり蜜
春吹雪ときとしてある赤き鳥/関青院庚
エレベーター
時としてある
押し忘れ/KAGE
体裁が 時としてある 恋心/きつねうどんの絵文字の人
金はない 時としてある 今はない/きつねうどんの絵文字の人
ないものが時としてある縁かな/きつねうどんの絵文字の人
笑う時 時としてある 泣く顔も/きつねうどんの絵文字の人
早く言え! 時としてある ある言いたい~/バーッド・マン
誰や君。時としてあるパネル指名/たあ
おっぱい/ぺいたそ(無季自由律俳句との注意書きあり)
バズるツイ
時としてある
パクりツイ/梁簀
早とちり 時としてある 全能感/お試し
花ちる 時としてあるぜんぶことば/コムギコネル
3月に
時としてある
春の雪/梁簀
君の名は 時としてある パロディかな/しゅ~へ~
気のふさぎ
時としてある
木の芽時/梁簀
まだしてない時としてある時の差よ/hide
たんぽぽや時としてある哺乳瓶/小梅
失敗も 時としてある 人生ね/木のこ
タラの芽に時としてあるヤンコビック/M*A*S*H
おぼろめく時としてあるひもりのなか/M*A*S*H
メンテ時に
時としてある
再メンテ/燈
密室の 時としてある 屁の臭さ/ぽん吉
蛤の時としてある堅い口/藤田ふじこ
袖口に 時としてある ご飯粒/Re:
していない 時としてある 時がある/月影澪斗
夫婦には 時としてある 長い夜/きゅう
手取りない
時としてある
臨給は/たかふみ
時としてアルカリ性の土匂ふ/yasu
伊予柑に時としてある臍を剥く/てふだじこ
謝肉祭時としてあるガチ夜這/廣瀬拓音
靴底に時としてある旅情かな/廣瀬拓音
羽根蒲団 時として離るまじけり/ASA
はなに微香
時としてある
少し梅/ASA
アカウント
時としてある
凍結だ/トニークラウド
裏側の時としてある春ショール/yasu
春の肌 時としてある ものおもひ/にゃん
花抱いて 時としてある ものおもひ/にゃん
雲雀の背
時としてある
涙かな/ぼんぬ♪
またお前 時としてある またお前/アマダレ
いつだって 時としてある ことがない/アマダレ
パン売り場時としてあるチルド肉/あきさみヨースケ
丑の刻時として荒るタイムライン/ジェノベーゼしぶやま
ピタゴラス、時としてアルキメデス/sekinema
プリウスに時としてある春の泥/猛省するダライ
四月馬鹿 時としてある 真摯かな/てすて
傘忘れ 時としてある 次も雨/セロリ
花見会 時としてある 二日酔い/恋住花乃
春一番 時としてある スカートめくり/恋住花乃
春の嵐時としてあるトレンド入り/つらね
時として
あるんですよね
感涙が/ジョージとクルーニーおじさん
くちなわに時としてある足ふたつ/sekinema
中年の時としてある狂い咲き/富永顕二
燕来る時としてある傘援け/のらしろ
クンニして時としてある棒と玉/裏庭の虚数
敬礼に時としてある梅見かな/ぴ
棋譜用紙 時としてある 万華鏡/hide01
屋根の上時としてある猫の恋/どら
春の夜 時としてある 恋の鞘当て/マミヅカスズ
Twitter アプリを閉じて また開く/Osiris
真夜半に時としてある春愁や/和流
時としてあるあるーるーるーあるあるーるーるー/富永顕二
線分を時としてある氷菓かな/君嶋浩
口に出す時としてある触り方/木内龍
頻闇に 時としてある 蛍かな/杖使い
一零時としてある万華鏡/akira matsuda
クラクションの時としてある霜柱/君嶋浩
朧夜の時としてある七対子/Sho SAKAI
山焼きや時としてある山火事に/とんぼ
鉛筆に時としてある春の恋/内橋可奈子
入学式時としてある木偶の坊/内橋可奈子
春泥に時としてある君の香/内橋可奈子
春愁に時としてある犬の顔/内橋可奈子
磯焚火時としてあるレズビアン/とんぼ
ソースかな
時としてある
醤油だよ/美海
亀鳴いて時としてあるまじろなり/Sho SAKAI
ホワイトデー 時としてある 引き出しに/四季凛々
たまにある時としてある拭き残し/美海
見送りの時としてある牡丹雪/sinheng
漫画村時としてある哲学書/裏庭の虚数
時としてあるのかないのか企業理念/裏庭の虚数
ゲロ吐いて時としてある昼御飯/裏庭の虚数
春の雨時としてある膝枕/じざす
炎天や時としてある句読点/柊月子
猫の恋時としてアルゴリズムめく/咲良あぽろ
振り返る時としてあるなごり雪/咲良あぽろ
丑三つ時としてあるくお雛様/咲良あぽろ
電子レンジに時としてある若布/咲良あぽろ
屋根裏に時としてある蛇の穴/咲良あぽろ
切々と時としてある花をはり/soichiro
母指球に
時としてある
激痛の/sinheng
線香の時としてある春の居間/あらたにさん
気をつけて 時としてある もらい事故/micchan
おぼろ月時としてある老の恋/葦たかし
衣替え時としてある勇み足/y0k0y0m0
春帽子時としてある後ろ髪/裏庭の虚数
時として時としてある時として/天点
さみしさの時としてある帰り花/萩野聡
朝焼の時としてある橋の影/萩野聡
眠蚕の時としてある古い屋根/萩野聡
花見酒 時としてある 「わ」の心/わなび
春の雨時としてある笑うこと/akira matsuda
気がつけば時としてある春二番/shuuka
青刺繍時としてある卯月かな/月下のふーたそ
西口に時としてあるからすうり/燕
雨空に時としてある春襲/藤田ふじこ
春風に時としてある悋気かな/jun
恋猫の時としてある色仕掛け/城水めぐみ
卑屈さも時としてあるチューリップ/城水めぐみ
中居君 時としてある スター性/のど自慢の鐘bot
アラーム5時としてある早起きだ/(いのせん)
亀に首時としてある寒くなる/ぴた子
例外も時としてある春の虹/城水めぐみ
雪原や 時としてある 花火会/四季凛々
皆まじめ 時としてある おれのボケ/月曜日のサラリーマン
薄氷に時としてある融点や/膣ギロチン
春ショール時としてある首吊りや/膣ギロチン
ゼロカロリー時としてある三カロリー/膣ギロチン
風呂上り 時としてある 鏡無視/月曜日のサラリーマン
違います! 時としてある 謎のウソ/月曜日のサラリーマン
お腹痛い 時としてある 新快速/月曜日のサラリーマン
くるぶしに時としてあるあいの風/そがみれい
じつと見れば時としてある落花かな/吉子
海風に 時としてある 頬の潮/ネキ=ソバヤネン
すすめたら 時としてある 沼の道/アナΣ
からからな時としてある月の夜/かなでるさん。
私にも 時としてある 乙女心/月夜乃
不健康時としてあるく坂道/ぶちけし
時として あることもある ないことも/猫の顔文字の人
時としてあるちょっと待って夏野/ポニョ
波音が時としてある夜長かな/かなでるさん。
ダンロップ時としてある霜の花/神無月
雛祭り時としてある半魚人/あら丼
皇帝に時としてある冬怒涛/mizuho
曼珠沙華ときとしてある打打擲/mizuho
夏霞ときとしてある海賊船/mizuho
大便に時としてあるコーン粒/高井己未
折り鶴の時としてある飛翔かな/akira matsuda
春疾風時としてあるセミコロン/無果汁
チューリップ時として爆ぜる音/Mizuho Hashisako
夕凪は時としてある船を漕げ/笛地静恵
スランプは時としてある朧月/笛地静恵
竜骨の時としてある風を裂き/笛地静恵
蝶落ちて時としてある夏休み/笛地静恵
トランプは時としてあるいかさまが/笛地静恵
時として死にたくないか春がくる/Mizuho Hashisako
向日葵の時としてある生欠伸/藤井智史
春の海時としてある黙秘権/村上海斗
紅梅や時としてある王の墓/村上海斗
春雷や時としてある傷を撫で/麦野結香
ぶらんこや時としてある空の穴/豆ぐみ
春疾風時としてある目玉かな/柊月子
時として締め切り切り裂く外は春/Mizuho Hashisako
鳥帰る時としてある夢精かな/照子
をぢさんに時としてある勃たぬこと/風ひかる
取消も時としてある卒業に/風ひかる
黙り込む時としてある春の夜は/yen

読む人に時としてある蝶の翅/とおと(追加分)

追記:公開後、〈うたた寢に時としてある蝌蚪の紐/燕〉は鴇田智哉の〈うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ〉の本歌取りではないかと教えてくれる人があった。なるほどそうかもしれない。

追記2:とおとさんの〈読む人に時としてある蝶の翅〉が抜けていました。お詫びして訂正します。読書の景でしょうか、何かを読むという行為のさなかに、蝶の翅が生えて飛翔しそうな瞬間があると。読みの歓びを感じます。読むという動詞の補語を隠したこの表現からは田中裕明の〈読んでゐるときは我なし浮寝鳥〉という句を思い出したりします。そういえばこの句にも羽が出てくる。

追記3:松本てふこさんの〈淡雪に時としてあるかどかはし〉は〈淡雪に時としてあるかどはかし〉の誤りです。こちらもお詫びして訂正します。恥ずかしながら「拐す」の読みはカドカワスだと勘違いして生きておりました。

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