夏を澄む飾りあふぎの狗けもの/安里琉太

北村薫・宮部みゆき編『名短篇ほりだしもの』(ちくま文庫、二〇一一)を購入。ちくま文庫からこの編者で出ている「名短篇」シリーズの一冊。

中村正常やオダサク、片岡義男なんていうラインナップも絶妙すぎておもわず笑ってしまうのだが、俳句がらみで石川桂郎と内田百閒が入っているのでオオッと思った。よく考えたら北村薫は詩歌に詳しいのである。

もう一人の編者の宮部みゆきはそういえば「角川」二〇一八・六の付録「ぼんぼん彩句」という小冊子に短編を三つ寄せている。宮部は長編型の作家だと理解しているので、小冊子に足早に三つの話というのは少し物足りない。せめて中編一つというのがちょうどよかったのではないか。これは宮部の愛読者であるおれのわがままである。

さて、今日の一句。

夏を澄む飾りあふぎの狗けもの/安里琉太「俳句」二〇一七・七

さすが龍太を慕って琉太と号したこの人の句は、上五中七下五に言葉を詰め込みかつ繋げて、なおバランスを崩さない。

飾り扇にあしらわれた狗獣の絵が澄んでいるのだという。飾り扇の装飾なんてコテコテで「澄む」というのは無茶苦茶なのではないかという気もするが、それを澄むと言ってしまうのだからこれは魔術である。扇というものの涼やかさも少し思わせる。

しかしまあなんといっても白眉は「夏を澄む」である。この「を」は経路の格助詞「を」。夏のあいだじゅう、とか、夏を経ながら、とか、そういうふうに理解する。「澄む」というと秋の感じも強いが、ここでは、夏の清冽な印象を言っている。

こんな言い方を思いつく安里琉太はすごいなと、雑誌で読んで感服していたのだが、さいきん魚目に次の句があることに気づいた。

夏を澄む虻にまつすぐ来る母よ/宇佐美魚目『松下童子』本阿弥書店・二〇一〇

琉太が魚目を読んでいることは知っているから、これもやはり魚目から採った表現ということになるだろう。魚目のこの句もこれはこれですごい句である。どこから見ているんだという……。

おれはこれまで魚目を花神社の花神コレクションで読んでいた。花神コレクションに入っているのは『草心』までである。それが最近既刊全句集を収める青磁社の『魚目句集』をある人から借りることができて、ようやくこの作家の全貌を知ることができた。『松下童子』は魚目のいちばんあたらしい句集だからこれまで読んでいなかったのはもったいなかった。

この句集を出したあと、魚目は実質的に俳壇からは退いており、新作はもう読めないと考えるのが現実的だろう。しかたのないことだ。ただ、鬼のようにも思われるこの作家がいまなおこの世にあるという事実は、理屈抜きにおれを奮起させる。同じ感覚を持っている人も多いのではないか。

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