死火山の膚つめたくて草いちご/飯田蛇笏

昨日は院の演習発表だったのでブログの更新をサボってしまった。三日続いたところだからまさに三日坊主ということになる。

夏になっても朝寝のやめられぬ友人がいて、そそろろ大学の単位がまずいようなので、ちゃんと起きて大学に行く準備をしているか毎朝電話をかけてたしかめるというのが日課になっている。単位が取れなくて大学をやめるなんてことになっては話し相手を失うおれもつまらない。

かくいうおれも、何週間か前まではたいがい六時には起きていたのに、曇りがちになって日光が部屋に入らなくなってからは下手をすると九時まで寝てしまうということしばしばで、これが社会人だったらと思うとゾッとする。

さて、今日の一句。

死火山の膚つめたくて草いちご/飯田蛇笏『霊芝』一九三七

この句についてはせんじつ彌榮浩樹氏が『週刊俳句』における不定期連載「肉化するダコツ」の第八回で取り上げておられた。

「山肌」という言い方もあるように、地表を「膚」と表わすのは珍しくはない。けれど、この句では「膚」が「つめたくて」の体感と組み合わされることで、常套句を超えて、「膚」にいのちが通う感じまで与えている。しかし(しかも)、それはすでに「死」んでいるのだ。

上のように彌榮氏は、「膚つめたくて」の「膚」に人体の肉感を見て取っている。

この文章を読んだあと、岩田潔の『現代の俳句』(日本打球社、一九四四)をぱらぱらと読んでいたら、掲句が「最近一二年のもの」として引かれていることに気づいた。

岩田曰く……

写真で見るロダンの死顔は死火山のやうに厳粛であつた。その荘重な死顔は、生前の意志の力の大きさを黙示してゐるやうな気がした。

岩田もまたこの句に肉体を見ているのである。膚がつめたい、となるとすなわち肉体を想像するのは、読み手として、当然の感覚ではあるのだろう。

ところで、岩田が掲句から「顔」を想像しているのは興味深いのではないか。彌榮は「膚」の印象を特定の部位に寄せてはいない。岩田が目撃した「死火山のやうな顔」とはいったいいかなるものだったのだろうか。ロダンの死顔の写真を、そのうち探してみなければなるまい。

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