徳川夢声『夢声随筆』(河出新書/1955)

買ったときにざっと読んでそれきりにしていた徳川夢声『夢声随筆』(河出新書/1955)を再読した。NHKの機関紙「放送文化」に1953年2月号から1955年8月号まで連載された〈マイク雑感〉の単行本で、扉ページにのみ〈まいくろばなし〉という副題らしきものが付されている。『夢声随筆』というとずいぶん素っ気ない題だが、話題の中心は放送稼業の時事的な雑感や回想であり、それなら書名は〈まいくろばなし〉の方を採用した方が洒落ていたのではないかと思わないでもない。

なお1953年の下半期には休載を挟んでいるが、この間に夢声は当時としては珍しい長期にわたる世界一周旅行に出ている。連載再開の1953年12月の記事(なお本書の各稿に記載されているのは掲載月ではなく執筆月なので、この文章でもそれに従う)からは単発的に海外での見聞が紹介されているが、単行本だとその事情が大して説明されないまま突然にその話が始まるので少し面食らう。当時の読者にとって夢声外遊は周知の事実だったのかもしれない。

連載開始の1953年2月といえば、まさしくNHKが日本初のテレビ放送を開始した月であり、連載終了の1953年までには日本テレビ、ラジオ東京の二局の民放も参入している。なお人気の衰えないラジオ放送と合わせて夢声にも仕事が殺到しており、本書にはその数々が断片的に記録されている。多くはもはや視聴の困難な番組であり、番組名のみならず時には内容までスケッチした本書の記述は貴重。

たとえば1953年3月の記事では、夢声にとって3度目のテレビ出演となったテレビ座談会での出来事が取り上げられている。俳人・星野立子、舞踊家・武原はんとともに〈桃の節句の話〉というテーマでおこなった鼎談なのだが、トーク番組という形式も当時にあっては手さぐり状態だったらしく、それにこの頃のテレビは生放送なので、〈話が途切れて出席者が困ってると、その困ったままが見えて了う〉〈――それなら、せめて話題だけでも、あらかじめ出演者が、トントンと運ぶように、相談しておいたらどうだ。/左様、テレビの座談会は、そうすべきかもしれない。だが、そうすると、どうしてもワザトらしさが出てきて、興味サク然たることになる心配がある〉〈“見えているから、いうことは詰らなくても、結構面白い”という方向にも持って行ける筈だ〉と苦心惨憺である。これの実践が〈煙草に火をつけたり、お雛菓子の箱をとりあげてみたり(中略)三人が、ただ黙ってニヤニヤしたり困惑したりしてるよりも、ダレなかったであろう〉というものだったというから、なんとも微笑ましい話ではある。カメラワークも発達しておらず、星野立子は終始横顔しか見えなかったという。

テレビ放送に限らず、マイク、テープによる録音といった技術もまだ普及して間もないおとぎ話のような時代で、ことに、ある放送局が流した岸田國士の追悼番組(ラジオ放送と思しい)についての所感〈悪魔の所業〉(1954年3月)は、放送音源を保存するという発想を持っていなかった当時の夢声の困惑を書きとどめていて興味深い。その追悼番組では辰野隆、田村秋子、内村直也による鼎談ののち、内田と生前の岸田がおこなった対談の音源が流れたというのだが、これを聴いた夢声は〈異様な感じがしてきたのである〉と述べるのである。〈どうもやはり「この人は死んでるのに」と考えると、ヘンなのである。/今後こうした放送が、頻繁になされるであろうから、いずれは私も馴れてくるにちがいないが、どうも今のところでは、何だか少し「悪魔の所業」じみて感じられる。/――死者をして静かに眠らしめよ。/そういう言葉が、私の頭のどこかで囁かれる〉。当人が書いた通り、追悼番組で故人の生前の映像・音声を使用するのは今となっては当然の手法になっているし、放送局が所有する映像・音声のストックも膨大になった現在、「お、こんなものが残っていたのか」という驚きはある種、追悼番組の見どころの一つになっている観もある。1950年代におけるこういった夢声の感情はもはや想像しえないだろうと思うと、胸にこみ上げるものがある。

そのほか、複数の放送局で同一の時間帯に同じ芸能人が出演する事態を疑問視した〈統合番組審議会〉(1954年1月)、洞爺丸事件・内郷丸遭難事件の取材で死体の映像を流したテレビ局を批判した〈その限界〉(1954年10月)など、現在の放送モラルの基礎となる発想がいくつか見られるのも重要だ。

なお最終回(1955年4-6月/複数回にわたって掲載か)は〈終戦ラジオ日記抄〉という表題で1945年8月12日から15日にかけての日記が転載されている。夢声の戦時下の日記といえば、『負るも愉し』(二十世紀日本社/1951)と『夢声戦争日記』全5巻(中央公論社/1960)とが刊行されており、昨夏刊行された『夢声戦中日記』(中公文庫/2015)の〈解説〉で濵田研吾氏が指摘したとおり、この二冊には、同じ日記を基にしている筈ながら細部において異なった表現を取った箇所が散見される。この両書のはざまで公開された〈終戦ラジオ日記抄〉を確認してみると、『負るも愉し』とも『夢声戦争日記』とも異なる表現を多数見つけることができた。テクストの成立に不思議な点も多い夢声の公刊日記について検討しはじめると大仕事になりそうなので今回は触れずにおくが、戦後10年というこの年の8月、2年半に及んだ連載の最終回に配された〈終戦ラジオ日記抄〉が、彼が戦後をどのように歩んでいったのかを考える手掛かりになることは間違いない。

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