滋賀、京都行顛末

六月一日

仕事で滋賀に行った。打ち合わせは一八時からだったので早めに乗り込んで延暦寺に詣でることにした。朋友の凱を誘ったら一緒に来てくれることになった。先に義仲寺の芭蕉墓所に参ったという凱と昼過ぎに坂本で合流した。

延暦寺に行こうと思ったのは、ちょっとした思い出があるからだ。全国学生比叡山競書大会という書道のコンクールがある。小学生の時分から書道をやっていたので、何度か応募し、小さな賞を貰った。子供心に覚えた延暦寺という名前がずっと心に残っていた。筆を持たなくなって久しいので、今更行ったところで何かになるわけではないのだが、滋賀と聞いてまず思い出したのがこの寺だった。

坂本からケーブルカーが山頂まで伸びているが、歩いて登ろうという計画だった。だが、登り始めてすぐ、無謀を悟った。有名な寺なので整備されているだろうと思っていたが、険しい山道だった。凱は知っていたらしい。「そんなわけねえじゃねえか」と呆れた彼は、そのへんの枝を整え、杖を作ってくれた。世界のあちこちの田舎町を飛び回り、野宿している彼に、ずいぶん助けられた。

死ぬかと思いながら寺に着いた。改修工事で殺風景な足場が組まれていたが、さすが堂は空気が違った。寺には興味のなさそうな凱を引き留め、しばらく薬師如来の顔を見ていた。廊下には例の競書大会で奉納された作品が貼ってあって、それにも見入った。ある高校生が書いた空海の「灌頂記」がとてもよかった。

堂を出ると、山の途中に紀貫之の墓所があるという標が立っていた。岸本尚毅に「貫之の墓は比叡に大南風」(『健啖』一九九九、花神社)という句があったなと思い出した。岸本さんが行けたならおれたちも行けるだろうという大雑把な判断で、行くことにした。

これが誤算だった。下ったかと思えばえんえんと上りがつづく尾根道で、あやうく遭難するところだった。「貫之の墓は比叡に大南風」なんてさらっと書くような場所ではない。「大南風」は「土佐日記」の南国のイメージで付けただけじゃないか。文体に騙された。岸本さんは山頂の手前までケーブルカーで来たのだろう、もしかしたら吟行句ですらないのかもしれないなどと軽口をたたき合った。やっとのことでたどり着いた貫之墓所は明治になって建てられたという代物で、墓よりもみちゆきの方が印象に残るというありさまだった。

六月二日

仕事というのは俳句甲子園出張講座in滋賀の講師だ。松山市が俳句甲子園の普及のために各地で開催している講座で、今回は一二〇名弱の生徒が集まるということだった。こんな大人数は初めてなので、どうなることかと心配だったのだが、凱、紅里、ゆりえ、まい、大雅、理文の各氏がサポートに入ってくれて、なんとかやりきった。ある高校生が書いた初雪の句がすごくよくて嬉しかった。一期一会の仕事だが、書いた俳句は残る。

終ったらすぐに茨城に帰る予定だったが、泊めるから呑もうと京都の大雅が言い出し、そのまま講師陣の数名で京大近くの飲み屋に入った。それぞれの近作を見せ合ってああだこうだと話した。そのうち関西の学生が何人か駆けつけてくれて楽しい会になった。暇そうな若手に電話を掛けて繋いだりもした。酔うと電話を掛けるのはおれの悪癖だ。

六月三日

おれ、千葉の凱、神戸の紅里が宿なしになってしまったので、結局大雅と四人でカラオケボックスに入って夜を越した。何周か歌ったあと、短冊を三〇〇枚ほどこしらえて袋回しに興じようとしたが、みんなグロッキーになってうやむやになった。早朝の五時に店を締め出されたあと、大雅が帰宅し、三人で京都駅に向かった。のんびり朝飯を食べた後、改札で解散した。「どこか見てから帰るよ」とおれが言うと、それなら知恩院がいいと凱が教えてくれた。

駅の高いところから見た京都の町並みに見覚えがあるような気がして、少し考えていたら、TVドラマ「怪奇大作戦」(一九六八-一九六九、TBS)の第二五話「京都買います」のワンシーンだった。仏像研究者のもとで助手をしている須藤美弥子(斉藤チヤ子)が、科学捜査研究所の牧史郎(岸田森)に、都市化がすすむ京都への思いを吐露するくだりだ。ロケ地は違うが、高いビルが立ち並ぶ京都の町並みは同じだ。

凱のすすめで知恩院に向かいながら、そういえばあのドラマには知恩院も映っていたのではなかったかと気づいた。姿を消した美弥子を探して牧が古刹を尋ねまわるシーンで、わずかに数秒だが、知恩院の三門から男坂を登る牧が映っていた。牧を演じる岸田森は好きな俳優だ。亡くなって三五年になる。男坂を登り切ったあと、ふり向いて、自分のうしろを歩いてくる五〇年前の岸田の姿を幻想した。

そんなことをしているうちに気づけば昼になり、慌てて新幹線に飛び乗った。行き当たりばったりだったが、妙に印象に残る旅だった。一人の顔が、一つの句が、一基の墓が、一杯のビールが、一本の道が、どれだけ嬉しいものか、しみじみと分かった。いい人生を送ろうと思った。

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