狂気のゲーム〈俳句しりとり〉

俳句しりとりというゲームがある。名前を聞くだけでだいたいルールは察せられるだろう。誰かの俳句でしりとりをするのである。句と作者を挙げていく。思いつかない場合にはその場で詠んでしまっていいが、なにぶんソウソウたる俳句に囲まれることになるので、ちょっと恥ずかしい。それから、思いつかない場合には、俳人の名前や季語でもいい。ただしこの手を使うと、自分の勉強不足を晒した気分になるので、できるだけ避けたい。

こんなクレイジーなゲームを思いつくのはもちろんクロイワトクマサを措いて他にない。僕は何年か前、彼と宮崎に行った帰り道にこれを教えてもらった。そして先日、軽井沢で一緒に遊んだ折、帰りの新幹線の中でまたやった。以来、妙にこのゲームが頭にこびりついてしまい、暇さえあれば一人でやっているのである。

ハマってしまえばこんなに暇のつぶせるものはないので、ぜひ普及させたく、具体例とともに遊び方を紹介してみる次第。さっそくやっていこう。ググったり全句集類の索引を使ったりのズルはナシでやる。

第一句はなんでもいいのだが、今年度の俳人協会新人賞を取った句集に入っている、

蘭鋳やみづうみ見ゆる通し土間/大西朋『片白草』二〇一七

でどうだ。「みづうみ見ゆる通し土間」の気持ちいいこと。この涼やかさを思えば金魚のたぐいが夏の季語である理由も分かるというものである。

で、次は「ま」だから、

真青な中より実梅落ちにけり/藤田湘子『黒』一九八七

大西さんは「鷹」の人だから、先代主宰の句で継ぐのは趣向である。もっとも大西さんが「鷹」に入ったのは軽舟さん時代になってかららしいが、それはともかく、連句的な連想の妙は芸術点として愛でたい(そのうちそれどころじゃなくなるので、こういうのは序盤で楽しんでおく)。

それにしてもこの句、葉や実のおし固まった中からほろりと一粒の実梅が落ちてきたわけだが、それを「真青な中より」と表現したのはマジですごいよな。

さて、「り」である。さっそく「り」が出てきてしまった。俳句しりとりの最大のネックは、「けり」「あり」「をり」あたりのせいで「り」が頻出することなのである。

林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき/寺山修司『花粉航海』一九七五

「実」のつながりで修司のこの句にお出ましいただこう。「逢」という字にしちゃうのが若さだよな。

さて、「き」となるともうなんでもある。修司の恋を引き受けて、

きみ火をたけよき物見せん雪まろげ/芭蕉

でどうだろうか。三段切れなのも修司ゆずりである。あいにく出典は知らないけれど、まあ古典詩歌というのは口承で伝わるものだからいいだろう。

うげ、「げ」か。「げじげじ」は季語だけれどすぐに例句は思いつかないな。「玄関に電話老いたり紫木蓮」という僕の名句もあるけれど、これは「ん」である。あ、「月」を音読みするたぐいは「げ」じゃないか。

月光の象番にならぬかといふ/飯島晴子『春の蔵』一九八〇

なんだか「鷹」の人の登場率が高いようだ。大西さんの句から始めたせいだろう。

さて、「ふ」となると「冬」から始まる句の一切が使えるけれどそれでは芸がない。

ふるさとは盥に沈着く夏のもの/高橋睦郎『稽古飲食』一九八八

でどうだ。「夜濯」の感じが少しあるのだろうか、僕はこの「ふるさと」にうす暗さを感じないでもない。「夏のもの」という不思議な言い方が手柄である。

次は「の」だ。「海苔」とか「軒」とかがありそうだが、すぐには思いつかない。の、の、の、俳句、俳句……とぶつぶつ言っているうちに、「ノボさん」(正岡子規の愛称)が出てきてしまった。たしかに俳句で「の」といえば「ノボさん」だが、「ノボさん」から始まる俳句があるわけ……

ノボさんの忌やモノノ怪を皆詠ふ/凛「ひるねくらぶネットプリントVol.1」二〇一七

あるのである。「ひるねくらぶ」というネット上の俳句ユニットが去年出したネプリに出ていたのである。「ノボさんの忌」という親しげな言い方がイイネ!

また「ふ」になってしまった。

鮒かさね煮る火も二月墓の母/宇佐美魚目『秋収冬蔵』一九七五

こんなにつめこんでるのに、言葉同士がゆるやかにつながっている印象になるなんて、やっぱり魚目はすごいよなあ。僕、さいきんはもっぱら魚目の句集を読んでいます。ちなみにこのあいだ元「青」の牙城さんに会ったとき、酔っぱらって「ねえ~なんか魚目の話してください~」とウザがらみしたら「魚目は『秋収冬蔵』がいちばんや」と言ってた。

で、「は」だ。

歯あらはに菊人形の老女かな/岸本尚毅『健啖』一九九九

「かな」止めの名品が多い『健啖』の中でも、これなんかは、特に立ち姿のいいものだろう。助詞を省いた「歯あらはに」という言い方が醸すきびきびとした印象が、おおらかな「かな」に対するフックになっている。

お、やっと「な」が出てきた。俳句しりとりにおいては、「かな」があるので「な」も頻出するのである。

なんとなく子規忌は蚊遣香を炷き/田中裕明『花間一壺』一九八五

尚毅といえば裕明である。ぐだぐだと、しかしみっしりと言葉が詰まったこの句のような文体は裕明の真骨頂。

旧景が闇を脱ぎゆく大旦/中村草田男『時機』一九八〇

新年詠らしく大胆な見立て。めでたい。

滝の上に水現れて落ちにけり/後藤夜半『後藤夜半集』一九五七

「た」で始まる名句と言ったらこれ。

で、地獄の「り」なわけだが、こんな句がある。

流觴曲水あるはんぶらに水おおし/高橋比呂子「LOTUS」二〇一五・四

「流觴曲水」とは、今の歳時記では「曲水」ないしは「曲水の宴」で載っていることが多い行事で、水流に浮かべた盃が自分の前を過ぎるまでに詩を書く桃の節句の遊び。中国の宮中行事だが、それがスペインの宮殿で行われているのだという奇想の句である。

しぐるゝや駅に西口東口/安住敦『古暦』一九五四

謂わずと知れた名句。そんなに大きな駅じゃない感じがする。

地球儀のお尻に螺子や紋黄蝶/島田牙城『誤植』二〇一一

島田牙城にはこんなにかわいい句もあるのである。

さて、「紋黄蝶」であるが、モンキチョウではなくてモンキテフと取るので「ふ」。

蕗を煮る柱時計の音の中/武藤紀子『円座』一九九三

「柱時計」というディティールが最高な一句。この間出たばかりの名著『シリーズ自句自解Ⅱ ベスト100 武藤紀子』(二〇一八、ふらんす堂)によると「古志」創刊第二号の巻頭句だったらしい。

寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ/森澄雄『浮鷗』一九七三

これはかつて桂信子が「食はず」は要らないんじゃないかというようなことを言ったらしいですね。でも、「食はず」と書くことで「食ふ」ことを一瞬まぼろしにして見せる感じ、僕は好きだなあ。

あ、また「ふ」に戻ってしまった。ドツボじゃねえか。歴史的仮名遣だと動詞が「ふ」で終わりがちという盲点。しかし「り」よりは「ふ」の方が継ぎやすい。

ふうわりともやをまといて雑炊よ/紗籠「九集 年度まとめ創刊号」二〇一七

岡山の友人の句である。なんとも美味しそうで好きな句。福田若之がどっかに書いていたけれど、この作者はオノマトペがすごくいい。

夜通しの嵐のあとの子規忌かな/津川絵理子『はじまりの樹』二〇一二

激動の俳句革新を思わせる。それにしてもさっきから子規忌の句が多い。

蛞蝓といふ字どこやら動き出す/後藤比奈夫『祇園守』一九七七

「なにやら」じゃなくて「どこやら」なのがうまいなあと。画数の多い感じが出ている。

さて、いいかげん疲れてきたのでそろそろ終わりにしたい。「ん」で終わったら洒落ていていいんじゃないかと思ったが、そうそう都合よく思い出せないので、時事ネタで、

滑り出て氷の上に女の子/長谷川櫂『初雁』二〇〇六

でどうだろうか。同じ句集には「日本橋三越」という前書きのついた「越後屋とおもへばゆかし花氷」というのがあるが、これは三越という現代の風物を長谷川櫂一流の美意識で俳諧ふうに書き換えたものである。掲句などもさしづめフィギュアスケートをこう言ってのけたものであろう。

長谷川櫂もスケートを見ているのだから、こんな遊びにかまけている暇はない。壊れて久しいうちのテレビをたたき起こしてオリンピックを見なければなるまい。

と、強引にオチをつけたあたりで、今回は幕引き。

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