日記の功罪。

母の家を片付ける。訪問ヘルパーに週に6日入ってもらっていただけに、部屋の中はきちんと掃除されていて、正直我が家よりきれいだ。
ただ、細かい整理整頓は本人に委ねられていたがために、雑然とまとめられた書類の類は、片付けなければならず、日付もランダムな書類を要、不要に分別していかねばならない。
大抵はもう不要な書類なのだが、間にお札が挟まっていたことがあり、油断ならないため、丁寧に分別することにした。

コープのチラシやら、新聞の切り抜きやらの間に、見知らぬノートが挟まっている。
中を見ると、日記だった。

興味本位で読み進めると、幼い頃の私について書かれている。

「泣いてばかりで難しい子だ」

「泣きたいのはこっちの方だ」

自分も母親になって、育児でつらかったことがあったので、それも仕方ないな、と、若かりし日の母の苦労を慮りつつ、ページをめくる
と、私の誕生日の日付が現れた。
母として、娘の誕生日になにか思うところもあったのだろうか、とちょっぴり期待をしながら読んでみたのだが、誕生日については、ひと言も触れられていなかった。

たまたまかもしれない。
その年の母にとっては娘の誕生日について、特に思うこともなかったのかもしれない。
そう思ってみても、なんだかひどく傷ついてしまった私は、その日はもうそれ以上片付けることができなくなってしまった。

そしてまた、日を改め、部屋を片付けると、今度はまた、最近のものと思われる日記が出てきた。
よせばいいのに、つい、読み進めて、すぐに後悔した。

「〇〇がお金が必要だという」

「この前残高を知られてしまったからあてにされたんだろう」

「呆れた」

どんな思いで頭を下げ、お金を都合してもらったのか。

母は私の目に日記が触れることなど想定していなかったのだろうか。見られたら困るとは思っていなかったのだろうか。
それとも、見られても構わないと思っていたのだろうか。

「お母さん、私、日記読んじゃった。ずいぶんひどいこと書いてあったねえ」

まだ正気の残る母の耳元で囁いたら、母はどんな顔をするのだろう。

いや、それを聞いた母が、なんの躊躇いもなく、ここぞとばかりに攻撃してこない保証はないのだ。

人はやはり、知らないほうがいいことや、思い出さないほうがいいことがあるのだと言うことを改めて痛感した。
そして、自分亡き後に日記は残すべきではないと言うことも。

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