雨の夜の出来事
昼間は晴れていたというのに、急に降り出した雨。駅前のコンビニでビニール傘を買い、家路を急ぐ。駅から家までは歩いて二十分ほど。住宅街に入るに連れ、人通りも少なくなってく。ビニール傘を打つばらばらという雨の音と、自分のヒールのこつこつという音だけが響き、だんだんと闇が怖くなってくる。
あの角を曲がれば、自宅から程近いコンビニだ。コンビニの明かりはなんとなくほっとする。不自然な程に周囲から浮き立った照明によって、暗闇から一瞬解放されるからだろう。
通りすがり、コンビニの入り口に目を向ける。急に降り出した雨に傘がないのか、軒先で雨宿りをしているらしい、一人の男と目が合った。
肩までかかる長い髪に、がっしりとした体つき。スエットの上下を身にまとっている。そのラフな格好から、近所に住んでいる人が、ふらっとコンビニに立ち寄った、というような風情だった。雨が降り始めてから随分経つのに、いつからそこにいるんだろうとは思ったが、別に気にもとめず、家路を急いだ。
コンビニから家までは坂道だ。この坂、距離は短いのだが、かなり急なのだ。しかも、坂を登りきってなお、階段を上らなければならない。この最後の道のりが、疲れた体にはつらい。息を切らし必死に登っていく。
ふと、人の気配が背後からした、と思ったその瞬間。思わず振り返ると、いつの間に追いついたのか、そこには先ほどのコンビニにいた男がいた。
「すみません、Lマンションって知ってますか?」
Lマンションは確かこの先を行ったところだ。
「あちらのほうにあったと思いますけど。越してきたばかりでよく分かりません」
そう答えると男は、ニヤニヤしながら、
「良かったら途中まででいいんで、一緒に行ってくれませんか?雨だし、傘持ってないから」
そう言い、私の傘の中に入ろうとする。
しかし、いくら私がお人よしであっても、このシチュエーションで、やすやすと傘を差し出すわけがない。
「いえ、私のうち、そっちじゃないんで、ごめんなさい」
早口で答えると、傘を自分の方に引き寄せる。
「そうですか」
男は恨みがましく、私を見つめた。いたたまれず、足早にそこを立ち去る。階段を上りきったところで、そっと後ろを振り返ると、男は雨に打たれながら、まだそこにいたのである。
冷静に考えれば、道を尋ねられただけのこと、何をそんなに怖がることがあろうか。
だが、見知らぬ場所を尋ねてくるにはあまりにもラフな格好、それに、傘がないのなら、コンビニで買えばいいのではないか?
男の佇まいは、あまりに不自然である。
帰宅し、家族に話して、
「夜道は怖いからね、気をつけないと」
などという結論に落ち着き、その日のことはいつしか忘れてしまった。
そんなことがあってから、しばらくして、いつものように家路に向かっていたときのこと。その日も雨が降っていた。
コンビニに差し掛かり、ふと、入り口に目を向けると、一人の男と目が合った。
長髪でがっしりとした体型に、スエットの上下。
一瞬にして記憶がよみがえると同時に、恐怖が沸き起こる。
以前、暗がりの中で会った男は、この男と同一人物だろうか。
いいや、そう言う男はいくらでもいる。別に気にすることはない。
そう気を取り直し、さっさと通り過ぎる。
坂を登りきり、階段を登り始めると、間近に足音が迫ってくる。
まさかそんな、と思いながら、後ろも見ずに歩き続ける。足音はどんどん近づいてくる。
傘を打つ雨の音と、ヒールの音、心臓の鼓動が重なり、息苦しくなる。
どうしよう、そう思った瞬間、足音は私を追い抜いた。やれやれ、と、ほっと一息つき前を見ると、追い抜いたその男は、先ほどのコンビニにいた男だった。
歩調を緩め、やり過ごし、家に向かおうとした瞬間、男はおもむろに私を振り向き、ニヤリと笑うと尋ねてきた。
「すみません。最近出来た、Kマンションて、こちらのほうにありますか?」
全身に鳥肌が立つ。
「知りません!」
そう一言答えるのが精一杯で、家とは反対方向に向かった。振り返ると、男は立ち止まってこちらを見ていた。
家はすぐそこだったが、追いかけてくるのじゃないか、と早足で、遠回りした。
途中何度も振り返ったが、追いかけてくる様子はなく、家に着いたときにはすっかり息が上がっていた。
それ以来、夜道、特に雨の夜道はとても怖い。
あの夜の、ビニール傘を打つ雨の音と、見知らぬ男のニヤニヤ笑いを思い出し、恐怖感でいっぱいになるからなのだ。
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