言葉にしなくても思っていることは、行間から伝わるのか問題。
やらかした。
LINEでやり取りしていて、お相手の人の気分を害してしまった。
「少し心外でした」
という文面が画面に映っていた。
受け手が全て
私が意図したことと違う風に受け取られたのだけど、受け手が全てだと思っているので、伝え方云々の問題ではないのかもしれない。
その時ふと、先日Twitterで見たTweetを思い出した。
これだけを見た時、
「どういうことかな~?私にはないかも」
と思ったのだけど、その続きを見て、ちょっと気になった。
「言わないけれど思っていること」
これは、あるかもしれない。
それが何であるかは、この一連のTweetを見た時は気付かなかった。
人に何かを伝える、教える立場として
さわらぎ寛子先生の文章講座を受講中に、文章を添削してもらうのだが
「この書き方は上から目線に感じます」
などと添削してもらうことが何度かあった。
自分としてはそんなつもりもないのだけど、文章の、言葉の端々にそういう要素があるのだ。
でもこれって、文章だけの話ではなくて、日常会話でもあるよね。
あるある。
講師業、先生業をしていると、受講生さんにはもっと良くなってもらいたいから、ついつい指導に熱が入る。
「なんでできないの?」
とは、さすがに思わないけれど、7年前、指導者になりたての私は
「なんでやらないのか、わからない」
とは思っていたかもしれない。
口には出さないけれど。
口には出さなくても、態度にも出さなくても、人間ってそこまで鈍感じゃないから、なんとなく、説明つかないけれど
「なんか、嫌だな」
と感じられていたかも知れない。
「教えてあげている」「知ってる私って偉いでしょ」
自分のことを深掘り深掘り。
何かすごいことを発見したとき。
私、すご!
こんなことに気付いてしまった!
教えてあげなきゃ!
これに気付けた私、偉い!
みんな、気付いてないやろ?
怖い。コワイコワイ。
心の奥底でこんなことを「ちらり」と思っていた気がする。
これらのこと、決して口には出さないけれど、態度にも出さないけれど、私から発する「何か」に、こういう雰囲気が出てたんじゃないだろうか?
「教えてあげる」じゃなくて「シェアする」
私の尊敬する人たちは、凜としているけれど、決して偉そうなところがない。
むしろ、知らないことは
「教えてください」
と、謙虚である。それは自分より立場が上であるとか下であるとか関係なくだ。
知っていることについては
「シェアしよう」
という態度である。
「こんないいことに気付いたの。シェアするね!」
これだ。シェアだ。
自分を卑下する必要はないけれど、大きく見せる必要もないし、偉そうにする必要もない。
偉そうな人って、結局の所「弱い人」なのかもしれない。
自信がないから態度で偉そうにする。
ああ。恥ずかしい。
偉そうにしていたかもしれない。
人はそんなに鈍感じゃない
言葉にも態度にも出さないけれど、
「なんか、説明付かないけれど会いたくないな~」
と思われたり、
「なんか、責められてる?」
「どこか、下に見られてる?」
と思われたりしたら、それは損だ。
人はそんなに鈍感じゃない。
その人から発せられる雰囲気とかオーラとか、微妙なものを、だけど本質を感じ取るセンサーみたいなのってある気がする。
LINEのお相手とは、その後言葉を尽くしてわかり合えたと思っているが、勘違い、思い違いされたのは、「今回の言葉のチョイスを間違えた問題」だけが原因ではないだろう。
それまでの長い期間のやり取りの中で、指導者として接する中で、良くなって欲しいあまりに、どこか偉そうだったり、上から目線的な部分が、雰囲気として伝わっていたのかもしれない。
驕るな、謙虚であれ
今日、喜光寺の縁日で山田法胤ご住職の「唯識論」の法話を拝聴した。
そのなかでふと、私におりてきた言葉。
「驕らず謙虚に生きる」
私に気付きをくださってありがとうございます。
ご住職の法話のおかげで気づけました。
クライアントさんとの「失敗」のおかげで気づけました。
弱いところも隠さずオープンにしながら、風通しよく生きたい。
心の中にも、人間関係にも、春の爽やかな軽やかな風が吹いているように生きていこう。
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