失われたアイデンティティを求めて──記憶喪失ものゲーム(1)

(この文章は、基本的にはネタバレがないように書かれています)

ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者(FC DISK 前編:1988年4月27日・後編:1988年6月14日)任天堂、ヘラクレスの栄光III 神々の沈黙(SFC 1992年4月24日)データイースト

多くのゲームにおいて、主人公という存在がいる。
物語性を持つゲームにおいてはほぼ間違いなく存在する。
それは、小説や漫画やドラマや映画や演劇など、他の物語性を持つメディアと変わりがない。

しかし、それらのメディアとゲームが決定的に異なる部分がひとつある。
ゲームではほとんどの場合、主人公はプレイヤーが操作するということだ。
他のメディアでも、主人公は鑑賞者が感情移入するべき存在であることは多い。
しかし、鑑賞者が主人公を動かすことはけっしてない。

その差によって、困った事態が生ずる。

RPGなどをいくつもプレイされている方なら経験があると思うが、ゲーム序盤での主人公と、毎日顔を合わせているであろう人々(家族、仲間など)との関係は少し変である。
それは、プレイヤーは主人公に乗り移るが、プレイヤーと主人公は持つ知識を共有していないことに起因する。
主人公は毎日その世界で生活しているのだが、一方、プレイヤーがその世界に足を踏み入れたのはこれが最初である。だからプレイヤーは何も知らない。
ゆえに、主人公は戦闘のプロという設定なのに、かんたんなトラップにひっかかるし、主人公はプロのレーサーなのに、なんでもないカーブを曲がれなかったりする。
ゲーム序盤における主人公は、まるではじめて地球にきた宇宙人のように、ありふれたものを好奇の目で見たりするなど、その行動は滑稽だ。

そこでゲーム製作者は、主人公の親友の「おまえ、今日はなんだかおかしいな」という台詞でフォローし、
そして「おまえの家はこっちだよな」という言わずもがなであるはずの台詞を喋らせて誘導する。

この会話は、不自然である。
それでも、「アナタノ家ハ、コッチデス」のようなHELPメッセージを出すのは無粋なので、少しの不自然には目をつぶっているものが多い。それはそれで正しい。
ただ、そうしないために、対策を取っている場合もある。
たとえば主人公がはじめて見知らぬ街とか星に着いたところである、という設定を設ける。
主人公が異邦人であるため、そのゲームの世界の異邦人であるプレイヤーとほぼ同じ境遇になるわけである。
しかし、それでもまだ主人公が元いた場所で得た知識をプレイヤーが持っているわけではない。

これらの問題を一挙に解決する方法が唯一存在する。
主人公の記憶を真っ白にすればいいのだ。
つまり、「主人公は記憶喪失になっていた」という出だしにする。
自分がどこの誰かもわからない。当然、いつも会っていたはずの人物のことも覚えていない。
それでも、相手は自分のことを知っているので、
「君はどこの誰それなんだよ。そして私はこういう者だ。覚えていないのか?」と解説してくれるのだ。
このようにすれば、プレイヤーにとって理想的に情報提供をすることができるし、
主人公はすでに知っているが、プレイヤーにはまだ与えられていないという情報はないので、プレイヤーと主人公の溝が少なく、プレイヤーは主人公に感情移入しやすい。

そんなわけで、主人公が記憶喪失であるという設定のゲームは、いくつも存在する。
その代表を挙げるとするならば、やはりファミコンのディスクシステムで発売されたアドベンチャーゲーム「ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者」ということになろう。
やはり、気がついたら主人公は記憶を失っていたというところからゲームははじまる。
人と会話しているうちに、主人公は少年探偵で、捜査中に記憶を失ってしまったことが判明する。
主人公は、事件の真相、そして自分の記憶をも求めて再び捜査をはじめるわけだ。
そして、事件の全貌、数々の伏線の意味、主人公の記憶、そしてそれ以上の真相が明らかになっていく。

主人公が失っていた記憶を完全に思い出すのは、やはり終盤において、だ。
失われた記憶を全部思い出すと、物語は一気にクライマックスを迎え、完結する。
すべての記憶を取り戻したということは、主人公はプレイヤーの持ち得ない情報を持つ存在になったということであり、もはやゲーム開始時のような主人公とプレイヤーの一体感はそこにない。
それは、主人公がプレイヤーの一部ではなくなってしまったことを意味する。
主人公は記憶を取り戻したことでかつてのアイデンティティもまた取り戻し、自立してしまう。もう、プレイヤーとは別の存在になってしまうのだ。
だから主人公はプレイヤーから分離、つまり別離する。だから物語は、終わる。


スーパーファミコンのロールプレイングゲームとして発売された「ヘラクレスの栄光III 神々の沈黙」も、記憶喪失ものの名作とされている。
記憶喪失であるばかりでなく、主人公はなぜか不死身である。
これは、先述した「無知な主人公」だけでなく、「ストーリーの都合上、決して死なない(死んだとしてもなぜか生き返る)主人公」というRPGの常識をも設定に利用しているわけだが、それは本稿のテーマとは関係がないので詳しいことは省く。
主人公は、なぜ自分は記憶を失ったか、そしてなぜ自分は不死身なのかという謎を解くために旅をする。
そして明らかになる自分の過去……当時としては斬新なシナリオが展開するゲームであった。

ただ、その過去は一方的に説明されるものであるにすぎない。
ほとんどのプレイヤーにとっての主人公像とは異なるものであると思われるので、意外ではあるが、 いままでまったくの謎、情報の空白部分だったものの答えを教えてもらうということには変わりがない。
その後、「記憶」というモチーフをもっと効果的に、ゲームならではの手法で扱ったゲームが世に出た。
それが、「ファイナルファンタジーVII」である。
このシナリオこそ、この「ヘラクレスの栄光III」のシナリオを手がけた野島一成の手によるものにほかならない。(※)
野島は、ヘラクレスで挑んだ「失われた記憶」というテーマに再び挑み、それはおそらくゲーム史上初の画期的演出によって見事に成功した。

それに関しては次回に述べる。

(その他、記憶喪失ものとして筆者が思い浮かぶものとして「ディジャブ」があるが、未クリアなので言及は避ける。また、記憶喪失ではないが「リアルサウンド 風のリグレット」も広義の記憶喪失ものといっていいだろう。なお、「やるドラ」シリーズにはすべて記憶喪失のヒロインが登場するが、主人公が記憶喪失ではないのでここでいう記憶喪失ものには該当しない)

※「ヘラクレスの栄光III」「ファイナルファンタジーVII」ともに、スタッフロールではシナリオ担当に野島のほか1名の名がある。もしかすると本稿でとりあげている内容は野島の発案でない可能性もあるが、両作品に共通しているので野島によるものと判断した。

(1999/6/2 綾茂勝太郎)

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