真偽の狭間で──記憶喪失ものゲーム(2) ファイナルファンタジーVII

警告!
この文章はファイナルファンタジーVII(以下FF7)をクリアした人のみを読者対象として書いています。以下、最大のネタバレ(誰が死ぬとかいう話ではないです)が含まれていますので、クリアしていない方はご注意ください。

ファイナルファンタジーVII(PS 1997年1月31日)スクウェア


ファイナルファンタジーシリーズ(ここではI~VIIのことを指す)は、しばしばユーザーから「決められた一本道を歩かされるだけ」「映画のように見ているだけで、プレイヤーが介在する余地がない」などと批判されてきた。

よくFFの引き合いに出されるドラゴンクエスト(ドラクエ)シリーズは、主人公を意図的に没個性化したり、主人公キャラに名前を用意せずにプレイヤーの名前をつけさせたり、会話では主人公は「はい/いいえ」しか言わないなど、プレイヤー=主人公だとプレイヤーに感じさせるように努めている。
FFシリーズは、作品によっても異なるが、特に最近の作品は、この点だけに関していえば、ドラクエとは逆の方向性に進んでいる。主人公キャラにも名前があり、性格があり、しばしばプレイヤーの意志とは関係なく行動し、喋る。
FF7を含め、FFシリーズ全作(※3)の音楽を担当した植松伸夫自身、
「一番問題なんですよね、うちのゲームって。やってんだかやらされてるんだかわからないというのは、結構昔っからそうですよね『ファイナルファンタジー』は」(※1)
と発言しているので、製作者自身も自覚しているようである。

このように、FFは受動的なプレイを要求され、プレイヤーが操作する意味がないとすらよく言われる。FF7においては、CGムービーやポリゴンでの演出も多く、ますます「見てるだけ」というシーンが増え、「(プレイヤーが介在する機会が少ないので)もうゲームじゃない。映画にすればいいのに」という意見まで聞く。


たしかに、プレイヤーが操作しない間に話が進んでいく部分も多いのは否定できない。しかし、FF7のストーリーの核であり、かつ白眉となっている部分は、むしろ逆できわめてプレイヤーの介在を必要とするものなのである。(※2)

その部分とは、ゲーム序盤、主人公クラウドの回想シーン(正確に言うとクラウドが仲間に過去を語るシーン)である。
プレイヤーはクラウドの記憶の中で、クラウドを操作する。神羅カンパニーのソルジャーであったクラウドは、戦友である英雄セフィロスとともに、ニブルヘイム魔晄炉へと赴く。
それはクラウドの記憶であり、プレイヤーの体験でもある。

そのイベントからさらに先、ゲームが終盤にさしかかろうとするとき、クラウドは記憶を取り戻す。クラウドはソルジャーではなかった。弱さが偽の記憶を作り出していたのである。

セフィロスと一緒にいたのはクラウドではなくザックスであり、
クラウドは回想イベントに登場していた脇役の一般兵の方だった。
その記憶はまったくの虚構ではないが、一般兵クラウドとソルジャーザックスの立場を入れ替えていたというものだった。記憶を、自分の都合のよいように改変していたのである。

理知的な大人を演じていたレッドXIIIが、実は本性は幼児的であったというエピソードがあるが、これはクラウドの件の伏線となっているだけでなく、FF7のテーマのひとつを表現しているのであろう。
人は自分を偽っている。ときには、自分自身に対しても。
他のキャラクターも、たいていは二面性を持っており、普段の自分はかならずしも本来の自分ではないということが示唆されている。


閑話休題。
通常、回想シーンはデモにするものである。
なぜなら過去は不変なものであるからだ。そこにインタラクティヴィティはいらない。

しかし、この回想シーンをプレイヤー自身にプレイさせるのはとても重要なことであった。
シーンが長いのでデモだと飽きるからプレイヤーが操作できるようになっている、というわけではない。 プレイヤーが操作しなければならない必然があるのだ。
クラウドは偽の記憶を本当の記憶だと思っている。
それを、プレイヤーに共有させる必要があった。
プレイヤー自身にも、それがクラウドが実際に体験した出来事だと実感させなければならない。

そうでなければ、「実はあれは本当の記憶ではなかった」というどんでん返しが効いてこないのである。
プレイヤーも体験したことだからこそ、自分の記憶だと思っていたものが贋物だと気づいたクラウドのショックがプレイヤーにも理解できるのだ。

それに、過去の事実だと思っていたことが、クラウドが作り出した嘘であったことになんの不思議があろうか?
そもそもあれはクラウドの語りをビジュアル化したものであったし、
プレイヤーが操作した、すなわちプレイヤー(=クラウド)が作り出した記憶であることはすでに証明済みであったのだ。
それは、過去に体験したことではなく、最近再現されたものである。
再現されたものが事実と同一である保証はどこにもない。

自分の信じてきたものがガラガラと崩れ、
いままでのもやもやとしてはっきりしなかった謎という霧が晴れる。
その演出のための複線として、あの回想イベントはあるのである。

前回述べた、同じく野島一成がシナリオを書いたヘラクレスの栄光IIIでは、記憶は空白であり、その空白に答えが書き込まれるだけであった。
一方、FF7においては、断片的な空白はあるものの、記憶はあった。
ただ、その記憶が間違いであることが明かされるのだ。
Aだと信じてきたものが、実はAではなくBだったと判明する。
わからなかったことがわかることよりも、いままで信じていたもの──それも、自分のアイデンティティ──が崩されることの方が、何倍もショックである。


記憶喪失ものゲームでは、前回述べたように、記憶が取り戻されることによって物語が完結する場合が多い。
しかし、FF7は必ずしもそうではない。

多くの記憶喪失ものゲームでは、記憶を取り戻すのは、アイデンティティ回復のためだった。だから目的を達して心の旅は終わりを迎える。
しかし、FF7では、記憶を取り戻すことは、逆にアイデンティティの喪失を意味した。
いままでの自分が崩れ去ったのだ。心の旅は、そこからはじまる。
これからも虚飾にまみれた自分を演じるか、それとも情けない過去の自分を受け入れるか。
クラウドは、後者を選んだ。後半は、自己受容の物語にほかならない。

この回想イベントは、ゲームという体験させるメディアでしか表現しえない。
クラウドの記憶は、プレイヤーの記憶。
クラウドの記憶の再現は、プレイヤーが再現したもの。
野島は、ヘラクレスの栄光IIIで挑戦した記憶というテーマを、さらに深化させた。
はたして、FF7は名作となったのである。
FF7は、けっしてプレイヤーの介在する余地がない物語などではない。むしろ、プレイヤーの介在がなければ成立しない物語であったのだ。


※1:DigiCube CD『ファイナルファンタジーVII リユニオン・トラックス』付属のブックレット 1997 渋谷陽一との対談より引用。太字は引用者による。
※2:多くの人は「キャラ萌え」とか「スクウェアバッシング」とかいうことに気を取られて、気づいていないのだろう。評論を標榜する雑誌ですら、「カッコいいと思っていたクラウドが情けない奴だと知ってがっかり」というような、感想レベルのものしか筆者は見かけなかった。雑誌や新聞等ではまともな論評をほとんど見かけなかったので、本稿(の雛形)を書いたわけだが、ネット上ではすぐれたFF7評を読むことができる。
たとえば、
野安ゆきおは、
日経ゼロワン・2月号に掲載された「ゲームのプロが選ぶテレビゲームソフトランキング」で、
「映像こそ真実。体験こそ虚構。」と、たったそれだけのことばで上に私が書いた内容(と、思う)をすべて表現している。
また、1999年4月22日(木)付けの日記では、「花」に着目してFF7を語っている。
寺西努は、
FINAL FANTASY VIIで、
ゲーム全体のレビューを行っている。「閉塞感」に着目している点など、視点が鋭い。
※3 植松伸夫がFFシリーズの前作の作曲をしていたのは記事執筆時点において。その後は他の作曲家が担当している。2020/6/25追記
(1999/6/2 綾茂勝太郎)

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