書評『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』

永田泰大『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』エンターブレイン(2003)

 昨年[※2003年]のJTB紀行文学大賞を受賞したのは、森まゆみ『「即興詩人」のイタリア』(講談社)という作品だった。一方、同じく昨年出版された『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』は、紀行文学の近年稀に見る大傑作である。しかしながら、本書がJTB紀行文学大賞を受賞することはありえないことではあった。紀行は紀行でも、架空の世界への紀行文学であるのだから。さすがのJTBも、架空世界へのパックツアーは難しいとみえる。


 架空世界の紀行文学というなら、『指輪物語』をはじめとして、多くのファンタジー作品が架空世界の紀行文学だといえなくはない。たしかに本書の舞台も一種のファンタジー世界である。だが、ほとんどのファンタジー小説は、世界を創造した作者自身が作中人物に旅をさせ、それを描写するのに対し、本書の作者は何十万人もいる架空世界のいち参加者であって、けっして世界の創造者ではない。創作物語ではなく、あくまでノンフィクションなのである。そこに本書の特異性がある。

 『ファイナルファンタジーXI』というのはテレビゲームの一種である。よくあるテレビゲームと少し違うところは、ヴァナ・ディールという名前の広い仮想世界があって、多くの参加者がインターネットを使ってそこに集い、共に旅をしたり怪物と戦ったりしているという点だ。そうした世界にほとんど予備知識もなく飛び込んだ筆者が、何を見、何を感じ、何を考えていったかという記録が本書である。

 旅は人を哲学的にする。殊に旅行記を書こうとした場合、そこに作者の旅人としての思弁が入り込むのは避けがたい。はたして本書も例外ではない。さまざまな人との出会い。新しい土地に立ったときの感動。世界の真実の欠片の発見や人間の普遍的な在り様の目撃。そして直感的でありながらも深い洞察が織り交ぜられる。もちろん単なる日記などではない。もともとがウェブ上で公開された連載企画であり、数ページ単位の各章は気軽に読める独立したコラムとなっている。


 作者はゲーム雑誌『週刊ファミ通』の元編集者である。「風のように永田」のペンネームでも知られ、あくまで自然体なその文体にファンも多い。糸井重里氏のサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』で「オトナ語の謎。」という、後に書籍化もされた人気連載を担当していたのも作者であるという。なるほど納得だ。


 本書において、架空世界で日々起きる諸々の出来事を見つめ、峻別し、描写する作者の筆致は秀逸というほかない。たとえば再会と別離の描写は次のようだ。

 ──思い出した。
 その人は、僕がこの世界で初めて言葉を交わした人だった。(……)
「ひさしぶり!」
 彼は僕のことを覚えていた。本当にひさしぶり、と僕は打った。そして、忘れてるかと思ったよ、と続けた。彼は言った。
「忘れるわけないよ、初めてしゃべった人だもの」
僕はとてもうれしかった。僕と彼は、近況を話しあった。(……)
 会話が終わりの雰囲気をともない始めたころ、彼は少し間をおいてつぎのように言った。
「俺、あなたをずっとさがしていたんだよ」
 僕は驚いて、うれしくて、申し訳なくて、うまく言葉がみつからなくて、反射的にもごもごと謝った。鼻孔の奥にツンとする妙な痛みが走った。(pp.213-215)

 僕は焦りながら、経緯を説明した。僕がサーバーを移住してしまうということ。僕とNさんは初めて言葉を交わした相手どうしだということ。待ったがNさんが来ないようなので、失礼だとは思うが伝言を頼みたいということ。(……)
 僕はモグハウスでログアウトのボタンを押し、半年のあいだ過ごした大地から離れた。何も考えないようにしていたけれど、画面が暗くなり始めた瞬間、二度とここに戻れないという思いがかすめて体のどこかがチクリと痛んだ。
 そして、気がつくと僕はもうそこを離れていた。
 ゲームを終えたあと、僕は自分を包む奇妙な感覚について考えていた。
 おそらく、僕とNさんが接点を持つことはこれから一生ないのだろう。名前も顔も知らない人の操作するキャラクターに感じるこの寂寥はなんだろう。
 寂寥はNさんに対してだけではなく、僕の言葉を伝えてくれるNさんの仲間に対しても生じていた。ほとんど接点のなかった人たちに対して、どうしてこんな親密さを感じるのだろう。
 この日、多くのプレイヤーがこういった特別な感情に包まれたのだろうと思う。
 こんな感覚を僕はほかに知らない。
(pp.411-412)


 人生で起こることは、すべて、ヴァナ・ディールでも起こる、のかもしれない。デジタルで構成された世界で生身の人間たちが遭遇する出来事は、現実世界で我々が出会う出来事の相似であるかのようにも思える。それでいて、少し異質な、むしろこれまでかつてなかった現象であるかのようでもある。

 『奥の細道』が旅の動機の説明と支度の記述から始まるように、本書もヴァナ・ディールという世界に行くことになったいきさつと旅立ちの準備の記述から始まる。


 ところが、それが50ページも続くのだ。具体的には、ゲーム機をインターネットに繋げるための装置を手に入れる苦労や、手に入れた後もインターネットに接続しようとする際に続出するトラブルなどである。だがこの箇所は、一般読者には無縁のつまらない技術的な話などではない。むしろ逆である。ゲームを始めたくとも始められない、その作者の七転八倒する箇所は抱腹絶倒の読み物であり、そしてこのゲームについて特別な知識を持たない読者と同じ目線で始まるからこそ、読者は作者とともにすんなりと架空世界に第一歩を踏み出すことができるのだ。

 紀行文学を読む読者のいったい何割が、実際に作者と同様の旅行をしようと思うのだろうか。スコット隊を描いた『世界最悪の旅』の読者のうち、実際に南極に足を運んだ者がどれだけいるというのだろう。紀行文学は、必ずしも実際にその地に過去に行ったり、将来行くことを考えている人間だけが読むものではない。


 ところが、本書は往々にしていわゆる「ゲーム攻略本」の一種であるかのように見なされ、『ファイナルファンタジーXI』というテレビゲームをすでに遊んだことがあるか、あるいはこれから遊ぼうとしている読者のための書であるかのように思われてしまいがちである。決してそんなことはない。本書はすべてモノクロで、トビラ以外にはゲームの画面写真は一枚も使われていない。ヴァナ・ディールの風景も、そこを行き交う人々の姿も、すべては作者の記述をもとにした読者のイマジネーションに委ねられる。優れた紀行文学が常にそうであるように、読者はその一冊を読み、作者の旅を想像力によって追体験するのである。


 ゆえに、このゲームを未体験で、今後もするつもりがない読者にこそ、むしろ本書は純粋に新鮮でかけがえのない読書体験を与えてくれるに違いない。かくいう私も、このゲームをしたことは一度もないし、今後もする予定は、ないのである。
(2004/3/10)


本稿は、「はてなダイアリーの一冊百選 #003 」として書きました。そのため、ゲームに全く興味のない読書家の方々に読んでもらおうと、形式張った文体を心がけたような記憶があります。
なお、末尾で「プレイする予定はない」と書いたのは、別項で書いたように、「ファンタシースターオンライン」が素晴らしすぎて、「オンラインゲームは面白すぎて、時間を忘れて遊んでしまう」と思い、以降自分に禁じたためです。(2020/06/26追記)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?