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推しという宗教

推しは神である。

2019年末に差し掛かろうとした時、いつもの蟹味噌甲羅焼きを囲む納会に一捻りということで、自分が所属しているENLやきうチームで『推しプレゼン』という企画をやった。
プロ野球に関わる選手/球団含むヒトやモノをとにかく周りの人に知ってもらう、という企画だった。
ストレートに選手をフューチャーする人もいれば、テーマに合う選手複数人を選んだり、中には球団社長推しという突拍子もないのもあったが、オンライン参加も含めてかなり盛り上がったと思う。

優勝は堂上直倫選手を取り上げた企画で、わたし的にはタイトルだけで優勝だった。

『堂上直倫が入団前からずっと栄養費受け取ってたってマ?』

文才が妬ましかった。

推しは推せる時に推せ。
去年は本当にそれを実感した年だった。

どんなに長年活躍する選手でも、いつかは体が衰え、技術がついていけなくなり、そして引退する。
プロ野球選手でなくなるということは、日々のニュースで見聞きする機会が極端に減るということでもある。
コーチや解説者として目にする場が近い場合もあるが、プレイヤーとしてのそれではないので、やはり物理的にも距離がある。
いくらSNSが発達し選手側からの発信が増えたとしても、その距離は現役の時以上に離れてしまう。
会えない分、より心はそれを求めるようになり、埋まらない心の隙間にはかの選手の輝かしい日々がどんどん積もっていく。

そうだ。神様にしてしまおう。

自分の心の真ん中にいて、言葉だけで表すことの出来ない光り輝くもの。祈ることで心の安寧を得て、日々の生活にさらなる彩りを添えるもの。
信仰にも似たそれは、やきうは宗教と言われるが故かもしれない。
怪我や病気で傷つくことがないように、また日々の活躍を祈る風景と、一心に自分が信仰する神に祈るさまとの差は、多分ない。

神たる『推し』は心の中心にいる。
そう思うことで、ニュースに上らない日の枯渇を埋める。

1つの宗教にも複数の宗派があるように、祈りの形式も様々でいい。
イコン(写真)を崇めたり、偶像(似てないボブルヘッド)を飾ったり。説教(トークショー)に行く場合もあれば、お布施(グッズ買い占め)もあるだろう。

そしていつか、その神を目にすることがなくなり、また別の神が眼前に現れることもあるだろう。

その時はこう言おうと思う。

神は死んだ。

#ヤクルトスワローズ #Enlightened #swallows