見出し画像

真実はいつも一つかもしれないが口にするかはまた別である

幼少期に「自分がされて嫌なことは人にしちゃいけません」という教育を受けることがあるけれど、あれ本当にやめた方がいいと思う。この説を信じたばっかりに、私は二十数年に渡って大事故をたくさん起こしてきた。

どうやら私には、真実至上主義みたいなところがある。核心をついた事実(のようなもの)を探すのが大好きで、自分のことでも他人のことでもそれ以外のことでも、もし見つかればその場の空気にかかわらず嬉々として話してしまう。
学生の頃は、そういう『正しいかもしれないけど言わんでいいこと』を空気を読まずに言いまくって、疎まれたり、クラス内で除け者にされたりした。今考えれば当たり前だ。なんか自分が話した後っていつも変な空気になるなということは気づいていたけど、私は全く反省していなかった。自分の中の新しい真実を知れるのは、仮に見たくない一面であったとしても、私にとっては何よりも喜ばしいことだったからだ。どれだけヤバい言動でも「自分がされて嫌なことではないから大丈夫」という理屈が成り立ってしまっていた。

どうしてそういう人間になってしまったのかと言われても、生まれつきだったかもしれないし、何かきっかけがあったのかもしれない。
ただ一つ覚えているのは桜の木のことである。
小学校低学年の時、同じクラスにやんちゃな田丸くんという男の子がいた。ある休み時間に彼は大きな木の枝を持って走り回っていた。枝の切り口はまだ刺々しく、本来誰にも見られることがなかった内臓のように新鮮な色をしている。
「それ、校庭の樹でしょ。わざと折ったらいけないんだよ」と私が声をかけると、「なんで?」と言われた。

なんで。なんでなんだろう。なぜ樹をわざと折ってはいけないのだろう。
「……樹だって、痛いと思うから」

自分でもこれではない気がすると思いながら絞り出した理由に、彼は「意味わかんねー!植物が痛いわけないじゃん」と言って走り去っていった。
枝を折ってはいけない理由はわからないけどそれでもやっぱりいけないことだと思ったし、自分にとってベストな答えを出せなかったことが悔しかったのもあって、私はそれを担任の先生に告げ口した。
先生が「田丸くん、校庭の樹を折ったの?」と問いかけると、彼は「折ってない、拾ったんだ」と言い張る。彼があまりに平然と答えるので、先生はそうなのねと言って、田丸くんと私にそのまま席に戻るように伝えた。普段、田丸くんはよく友達を殴ったり意地悪したりして注意されまくっていたので、それに比べれば枝を折ったかどうかなどは取るに足らないことであり、先生からしたらこれ以上勘弁してくれという感じだったのだろう。
でも私は、これは真実ではないと思った。
私が間違っていることにされた。絶対に違う。絶対に違う。ほんとうじゃないことを言われている。鼓動が高鳴り、どろりとした液状のもので脳が支配されていくのがわかった。

真実を証明しなければ。

それから授業の内容は全然耳に入ってこなくって、私は田丸くんが樹を折ったという証拠をあげつらうことに頭をフル回転させた。昼休みのとき、彼がもう飽きてその辺に放り投げていたあの枝を見つけ、私はそれを持って校庭中の樹を調べた。表皮の感じからして、枇杷の木ではない。枝の曲がり具合からして、くすの木でもない。桜の木の下に着いて、一本一本調べていき、子どもが手が届きそうなところにある傷跡を見つけた。それを持っていた枝と照合すると…………ぴったりと合ったのだ。

なんだかすごく興奮していた。
もう、田丸くんが樹を折ったこと自体はどうでもよく、私は真実を自分の手で見つけたことで頭がいっぱいになっていた。誰も持っていない素敵な宝物を自分だけが隠し持ってしまっている気がして、どうにかして今すぐ誰かに伝えたくなった。
私は放課後、急いで田丸君を呼び止めた。
「校庭の樹折ってないって言ってたけどあれ嘘だよね。だって最初に私が注意したとき『なんで?』って言ったよね。本当に折ってなかったらそこで違うって言うよね」
田丸くんがぽかんとしているのもお構いなしに、私は早口で捲し立てる。

「見てこの枝。さっき田丸くんが持ってたやつだけど、折れたところが新しいよね。自然に折れたらこうはならないと思う。あとさっき校庭で探したら桜の木とぴったり合うところがあった。これ桜の木でしょ。2時間目の休み時間の時、校庭の3番目の桜の木、折ったんでしょ」

彼は多分もう、戯れで折った枝のことなどすっかり忘れていたのだろう。「なんでわざわざ俺にこれを言うんだよ」という苛立った顔をしている。
「……あー、折ったよ!だからなんだよ!」
彼からそのセリフを引き出して、私の達成感は絶頂を迎えた。やっぱりこれは真実だった!もう誰でも良いから褒めてほしい。
「どうだ!この名推理」
私は満面の笑みで、両手を腰のところに当てて胸を張った。こう書くと脚色っぽいが、このとき本当にこのポーズを取ったことを覚えている。嬉しくて嬉しくて、名探偵コナンのアニメで覚えたばかりの「めいすいり」という言葉も使った。だけど田丸くんは「うるせーバーカ意味わかんねえんだよ」と言い残して走り去っていってしまった。

罵声を吐く田丸くんに全くイラついたりはしなかった。それよりも、初めて見つけた真実の手触りに感動するのにまだまだ脳が忙しかった。真実というものの圧倒的な美しさと、それを掘り当てる快感。生まれてからずっとこの世界には靄がかかっているような気がしていたが、真実というものは目に見えないはずなのに圧倒的にクリアで、ぴかぴかで、きらきらだった。本当はこの感動を田丸くんと共有したかったのだけど、彼って乱暴で変な子だもんな、と思って納得することにした。今考えれば、田丸くんより私の方が100倍は変な子だったのだが。

私はそのまま中学生になって高校生になって、『正しいかもしれないけど言わんでいいこと』をやっぱり言いまくって、そしてもはや正しくもない上に言わんでいいことも言いまくって、人間関係を破綻させ続けていた。たまに他人が勇気を持って指摘してくれても、「私ってそういうところあるんだァ〜〜!!」と理解が深まったことをただ喜んだり、既知の物については「あー、それは知ってるよ」と素っ気なく返したりしていて、余計に相手の怒りを買っていた。私にとっては「ほんとうに真実かどうか」「自分にとって新しい真実かどうか」にしか価値がなかったのだけど、相手からしたら「自分に危害が及ぶかどうか」なので、知ってるなら直せよとずっと思われていたんだろう。

恐ろしいことに、自分の言動が本当にヤバいと気づいたのはたった数年前だ。とある人に「上坂さんは自分の両手がシザーハンズだってことを分かっておいたほうがいいですよ。上坂さんが通った後の道はたくさんの血が流れてます。あなたには見えないのだろうけど」とまで言われ、やっと気づくことができた。

私の両手、刃物だったんだ。真実をていねいに両手で掬い取って愛でることが、毎回相手をズタズタに切り裂いていたんだ。だから皆、段々私から離れていっていたんだ。ショックというよりは、このときもやっぱり自分が気づいていなかった本質に気づかせてくれたことが嬉しかったので、「なるほどね〜〜〜!!!」と喜んでしまった。

自分の両手が刃物だと気づいてからは、できるだけ人を切り刻むことがないように努力した。しかしそれは、とても難しい。
薄々自覚はあったのだけど、とっておきの真実について話すとき、私は眼が座っている、というかガンギマっている。田丸くんを追い詰めたあの日のように、脳から何かの液体が分泌され熱くなり、できるだけ端的に磨いた言葉を早口で並べるも、それでも脳の加速に追いつかず必死になる。先日は好きな漫画について自分の考察を話していただけだったのに、厨房の中で店員さんに「あの席の人、なんかの宗教勧誘してるよね」と噂されていたことが、店を出た後に友人から聞いて判明したりした。


※ここから末尾のみ有料になりますが、ぶっちゃけ無料部分がほぼ全てになっています。お金を払うのは、更新を応援してやるか〜という優しい人か、お金が余って困ってる石油王だけでお願いします

ここから先は

469字

¥ 300

サポートいただけた場合、猫がよりよく暮らすためのお金としてありがたく使わせていただきます。