朝日のような夕日をつれて2024が楽しみだなという話
おしながき
★カゲロウが死んだ
★ゴドーとはなんだったのか
神の死
神らしき者
★待つことと、退屈
ハイデガーの退屈論
環世界
★何度目かのn日目
★みよ子の遺書
カゲロウが死んだ
大学生の時、ニーチェの永劫回帰に出会った。
ざっくり言えば、無限の時間の中で宇宙は永遠に繰り返すということ。
ビッグバンで宇宙が拡散し、地球が誕生し、恐竜が闊歩し、人類が進化し、今に至り、そして地球が滅び、宇宙は消滅し、またビッグバンで宇宙が拡散し、また地球が誕生、また恐竜は闊歩し、また人類は進化し、また今に至り、そしてまた地球が滅び、また宇宙は消滅し、再度ビッグバンで宇宙が拡散し……という具合。
大学の講義できいた永劫回帰の例はまさしくこんな話だった。きがする。
その何年か後にたまたまテレビでながれていた、海外のカゲロウの産卵と死の映像を見た。脱皮し成虫になり次の瞬間から飛びながら交尾し、卵を産み、死ぬのだ。その時間わずか数時間。その卵がまた1年後に脱皮し成虫になるのだ。
あれ以降ずっと生きることに意味を見いだせずにいる。
カゲロウは、種を繋ぐためだけに生まれて死ぬのだ。
そして宇宙は永遠に同じことを繰り返すのだ。
それでは人にはなにか生まれてきた理由がなにかあるのか、生きている意味というものがあるのか。
いやそんなものはない。カゲロウときっとおなじだ。意味なんてものはないのに、人間は空想ができてしまうが故に、意味や幸せなどというものをさも在るように錯覚しているだけなのだ。
ちなみに言っておくがニーチェの永劫回帰は生を否定するものでなくむしろ来世などないのだから今を充実させろという趣旨で言っている。
2023年3月、逸見輝羊氏演出で鴻上尚史氏の朝日のような夕日をつれてを初めて観た。
終盤に出てくるみよ子の遺書で、涙が止まらなくなった。それから1年あまり経って、改めて21世紀版を読んだとき、やはりどうにも涙が出る。いったい何がこんなに刺さったのか考えてみたくなった。
ゴドーとはなんだったのか
さて、とりあえず、みよ子の遺書を語るには、朝日のような夕日をつれてを語るには、ゴドーを待ちながらという不条理劇について触れる必要がある。
そもそも不条理演劇とはなにか。お世話になりますWikipedia先生。
残念ながらゴドーを待ちながらそれ自体を観たことはないが、白水社より出版されている安堂信也氏、高橋康也氏翻訳のゴドーを待ちながらを読んだ。キリスト教の神話にまつわる詩が、それ自体がなにかを示唆して物語ると言うよりは、モチーフ的に鏤められている。そういった詩的な美しさとか、言葉遊び、隔行対話、メタネタ、踊り、長ゼリフ、帽子をまわす道化芝居。小説ではなく、演劇のために作られた作品である。
ついでに書いておきたいが、この記事もなにか解釈や結論を出すつもりはあまりない。因果律も合理的な解決もない。自分の中に落とし込むための、自分が楽しむためのメモでしかないので、読んで頂いても、がっかりさせるかもしれない。朝日〜についての考察でもなんでもないし、引用もなにもかも無茶苦茶だと思う。許して欲しい。
神の死
この作品がうまれた時代について触れていきたい。
S・ベケットは1906年アイルランドで生まれ1989年フランスで死ぬ。ゴドーを待ちながらは1953年に初演を迎える。
第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)は、どちらも彼が生きているうちに起こっている。
このころのヨーロッパは、ざっくりいえば産業革命以降、工場が発展し大量生産が可能になり、資本主義が確立していった時代だ。そして労働者は労働運動により、休息を得るための余暇がうまれ始めた。
さて、資本主義の他に、産業革命がもたらしたもう一つのイベントがある。神の死である。産業や科学の発展に伴い、これまでのイデア論的な価値観がニーチェ(1844-1900)によって否定された。
イデア論を簡単にいうと、本当に存在しているものとは、神の世界にある真の姿(イデア)であり、現世にあり、知覚されるものは、まるでハンコを押したように写し出されているだけの似すがたなのだというプラトンの思想である。
神とはいわば、「存在」とはなにかを語る上で、本質が彼岸にあり、この世にあるのはそのうつしなのだという価値観そのもののことだった。つまり、これまで存在とは何かを語る上で指針になっていた価値観が神の死という言葉で否定された。
さて、ニーチェはなぜ神が死んだと説いたのか。哲学者は「存在」についてずっと考えている。四六時中という意味ではなく、昔からという意味で。それこそプラトンのイデア論だって「存在とは何か」についてを論じている。念のため補足しておくとプラトンは紀元前427-紀元前347の哲学者だ。それだけ昔から、人類は存在について考え続けている。ニーチェはその存在の捉え方をプラトンと別の方向から考えた。
神にとってかわる思想が実存主義である。実存主義とはなにか、ベネッセさんが非常にわかりやすく書いてくれていたので、引用したい。
つまり、これまでの存在に対する考え方や価値観が大きく変わった時代だといえるだろう。
神らしき者
ここまでで、一度考えたいことがある。ゴドーとは何者なのか。Godをもじっているんだろうなというのは誰もがなんとなくまずは頭に浮かべるだろう。
作品の生まれた背景を思い出してみると、こう言えるのではないだろうか。神が死んだ世界の後に、神のような存在を待つ男2人。それがゴドーを待ちながらの背景である。
存在について語る際のこれまでの指針、縋るべき神の死んだ世界で、神然としたもの、つまり次に縋る先を待っているのだ。
そんなものは、もうないのに。いまここにある人間の現実存在しか、無いのに。
みよ子もゴドーを待っていたのだ。
ゴドーとはきっとそういうものだ。
そう思うと神が死んだ世界で、キリスト教の神話の詩がちりばめられているというのはなんだか皮肉で面白いのかもしれない。
ちなみにニーチェの死んだ「1900年」というのは
作中に唯一出てくる、時間についての情報である。多分唯一だと思う。
こんな具合で。
待つことと、退屈
國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」第6章を読んだとき、「朝日のような夕日をつれて」のワンシーンを思い出した。と同時に、「朝日のような夕日をつれて」ひいては「ゴドーを待ちながら」はある種、退屈論だとようやく結びついた。待つことは、退屈だ。それはそうだ。思い出したい。労働者が余暇を手に入れるようになってきた時代背景を。
ところで、この二つの作品のことを考えながら、そしてこの本を読み終わったら思ったことをすべて文章にしてみようと思いながら読み進めていたのだが、あとがきでゴドーを待ちながらに触れられていて、それはもう、悔しかった。そして嬉しかった。安心した。
ハイデガーの退屈論
「存在」について、そして「退屈」について論じた哲学者として触れておきたい人物がいる。ハイデガー(1889-1979)である。暇と退屈の倫理学で触れられているが、ハイデガーは退屈を以下のように分析した。
第一形式、何か退屈なものによって退屈させられている状態
たとえば田舎のローカル線で電車を待っている。電車が来るのは四時間後で、周りには何もない。時刻表をみても十五分たったか、地面に絵を描いてみてもさっき時計をみたときから五分しか進んでいない…と言う具合に。
時間がぐずついて、私を引きとめている状態を第一形式と呼ぶ。その状態が私を困らせるのは、時間を失いたくないからで、なぜ失いたくないかと言うと、日常の仕事にその時間を使いたいからだ。
第二形式、何かに際して退屈させられていること。
こちらは何がその人を退屈させているのかが明確ではない。たとえばパーティに参加していて、美味しい食事も、楽しい会話もあるのに退屈だと感じる状況。気晴らしであるはずのパーティ、置かれている状況そのものが暇つぶしのはずなのに、周りに調子を合わせることで自身のうちから空虚が現れてくる。それが退屈の正体である。
第三形式、何となく退屈だ。という状態。
最も深い退屈は状況にかかわらず、突然的に現れる。
なんとなく退屈だと言う状態において、人間は自分自身に向き合うことを強制される。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは「なんとなく退屈だ」と言う深い退屈から逃げるためだ。そこから目を背けたいがために、労働や気晴らしを行うのだ。そして第一形式、第二形式の退屈に出会う。
可能性をハイデガーは自由だという。
私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。退屈するということは、自由であるということだ。そしてその自由をどう実現するか。「決断することによってだ」とハイデガーは言う。
環世界
生物学者ユクスキュルは「環世界」という考え方を唱えた。あらゆる生物は、人間がまずイメージする世界(客観的な環境)の中に生きているのではなく、種固有の知覚世界の中で生きている。どういうことか。ユクスキュルはマダニの例をあげている。マダニは視覚も聴覚もないが、哺乳類の血を吸うことができる。マダニは哺乳動物の発する酪酸の匂いを感じとると、今度は体温を感知し、その方向に飛びかかる。うまく動物に着地できたら、触覚で体毛の少ない部分を探り当て、血を吸う。マダニにとっては世界は、つやつやした緑の葉の擦れあう音がするものではなく、嗅覚、温度、触覚のみで知覚されるものである。
ハイデガーはそれに対して、動物はそう(餌によって〈とりさらわれている〉)だが、人間はそうではないと否定した。國分氏はさらに、人間もまた環世界に生きていると述べた。動物と違うのは、人間はそれぞれの環世界を比較的簡単に行き来することができるということ。人間は何かの専門知識を勉強して数年後には、世界をこれまでとは全く違うように見ることができるようになる。たとえば音楽を勉強すれば楽器の一つ一つまで聴こえるようになり、これまで聴いていた音楽も聴こえ方が変わる。
このあたり詳しく知りたい人は暇と退屈の倫理学を読んでほしい。おすすめの一冊。
このセリフまわしが、間がいいだのなんだの、あの仕草がどういう機微を表現していてだの、演出が〜とか脚本が〜と考えられる人は、すでにそういう環世界に身を置いてるのだと。なんかまあ、そんな感じ。
何度目かのn日後
ところで、すこし話は逸れるが、ゴドーを待ちながらの一幕と二幕の時間軸は、昨日と今日、あるいは今日と明日なのだろうか。
まるで一幕から続いているようで続いていない翌日の二幕だ。もしもベケットがニーチェに少なからず影響を受けているのであれば、こう言えないだろうか。永劫回帰で繰り返される何度目かのn日後ではないかと。
冒頭にも書いたがニーチェは永劫回帰を、何度も繰り返すのだから、繰り返すに値する人生を送れという意味合いで唱えている。
ゴドーを待ちながらの中で退屈から逃れる術として出てくるのは、気晴らしを除いては、「夜」と「ゴドーが来る」ことだ。
夜は死。夜が来るとゴドーを待つことからも免除される。しかし死ねばまた朝が来て繰り返す。ゴドーが来るまで。でも来ない。その繰り返しだ。生きると言うことは。待っている限りは。今ここにあるひとりの人間の現実存在に、可能性に、自由に目を向けないかぎりは。自分で決意しないかぎりは。
※繰り返すに値する人生を送ろうと奔走するこの私は何度目の私なのだろうか。1回目の私でなければ、全ては繰り返すので、選択の余地などないのではないか。
今の自分がこの後の永劫回帰のベースになることが前提になっている気がする。
このセクションは消すか迷ったが、自分の感じたことメモ的なものなのでそのままにしておくとした。
みよ子の遺書
おそらくだれしも、自分がなにかであること、なにかになることを望んでいる。輝いて見えるなにかに自分がなれるのではないかという期待や、自分の現状をなにか有無を言わせず打破してくれるようなものを待ってしまっている(特になんとなく行き詰まっていると感じた時に)。
それは今現在すでになにかになれているように見える人たちですら同じように感じているのだと私は最近気づいた。(もしかしたらごく少数、そうではない人もいるの可能性もあるが。)
でも、そんなものはないのだ。私はなにかになれないという意味でない。そもそも、なにか、なんてものはない。こうなれば幸せになれるという「なにか」だとか、なるべき「なにか」がある、ということは無いし、ましてやそれがあちらから勝手にくることは無い。白馬の迎えは来ないのだと、ソウルメイトは来ないのだと悟る瞬間が必ず来る。
それがみよ子の寒気なのではないか。
なぜなにかになりたがるのか。〈とりさらわれた〉状態をもたらしてくれる何かとの出会いを期待していたのだ。つまり、新しい環世界を移動したがるのだ。いまいる環世界は私がいるべき場所ではないと、どこか別の環世界に移動したがっているのだ。
ここまでこの記事を書いた段階で思い返せば、行き詰まっている状態とは「なんとなく退屈」だと当たりがつく。常にきこえてくる「なんとなく退屈だ」が聞こえた状態だ。深い退屈という絶望。活動家として熱中するものがあったときには聴かなくてすんでいた「なんとなく退屈だ」の声を、クールになってきたことで、きいてしまったのではないか。きいてしまったからクールになったのか。自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされたのではないか。
もう一度生まれ変われるものなら、とみよこが言ったくだりで、決して傷つけない他者はこう語っている。
これは冒頭に書いたニーチェの永劫回帰を想起させる。
永劫回帰は、輪廻転生(リ-インカーネーション)や生まれ変わりとは違う。前世の業は背負わない。長い時間の中で、何度も同じ現象を繰り返すだけだ。
ソウルライフのなかのだれがしは、生まれ変わりを否定も肯定もせず、永劫回帰の話をした。この話は生まれ変わりの話ではないと、否定しなかった。否定は傷つけることだと、プログラミングされていた。そしてみよ子は輪廻転生と永劫回帰の違いに気づかなかった。生まれ変わってやり直すことができるなら、この生というのはあまりにも無意味すぎる。
否定されたかった。生きる意味などなくても、なにかになれなくても、とりさるなにかなどなくても、生きねばならないと、言われたかったのだ。それがきっと、みよ子が本当に欲しかった優しさかもしれない。ソウルライフのなかのだれがしは、みよ子を傷つけない代わりにみよ子の生を無意味にしてしまった。
みよ子は永劫回帰の中で繰り返し遺書を書くだろう。
いや、みよ子はむしろ、やり直すことができないと否定されたことを理解して、それに傷ついたのか、それでも、生まれ変われるという希望的観測を捨てられなかったのか…?
近頃は「わかりやすさ」を求められがちだが、ゴドーの正体も、生きる意味も、〈とりさらわれ〉た状態をもたらしてくれる何かも、どれもわかりやすいものではない。自分で考えなくてはいけない。自分で出会に行かなければいけない。自分で決断しなければいけない。
生きるということは死に向かって歩いていくこと。
死ぬまでの道中、なにをつれて歩いていこうか。
最後に勝手に宣伝
2024年夏。10年ぶりに作の鴻上尚史氏演出で朝日のような夕日をつれてが上演される。
なにかたまたまこの記事に行き着いて、たまたまうっかり最後まで読んでしまった方がもしいるならば、これも何かのご縁ということでぜひ。
あとせっかくなので東京公演の会場の紀伊國屋で、國分先生の暇と退屈の倫理学も買うといいと思う。おいてるかわかりませんが。
ISBN 978-4-10-103541-3
新潮文庫です。
おわり。