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幻ぢゃない

 私の心の隅にはいつも死がある。
 ずっと考えても解けないその謎を私は恐れている。
 生き物はいずれ死ぬ、死んだらどうなるの?
 魂があって、生まれ変わるのだとしたら、どうやって生まれ変われるのだろう。
 わからない。
 折々に様々な文献や映像を読んでいるが、絶対の答えを得ていない。
 根源的に私は死が怖い。
 怖いから死を迎えたものに対して、触れるのが苦手である。
 必要最小限にしか触れられない。
 
 空照を喪って、想定していた以上の喪失感に心が凍りかけていた。
 涙も出ず、ただ、心に溜まっていく虚無に近い、空照がもう居ないという現実に打ちのめされて、悲しい悲しいと呟いて、眠れないでいた。
 思えば、虹の橋を渡った子達を理性的に思い出しても、彼らの存在を感じたことはなかったなぁと反芻したりしていた。

 空照が居なくなっても、明日は会社で仕事がある。
 午前2時になって寝ることにする。
 あれこれと思い巡らせつついつの間にか眠りに落ちていた。
 何か声が聞こえて目が覚めた。
『撫でて』空照からの要求。
 死を迎えた家族を撫で続けられる人も多いが…。
 私はそれができない。
 死に触れるのが怖い。
 未知数の恐れで私が苦手としていることだ。
 私が理性で導き出せる言葉じゃない。
 これだけ明確に頭の中に何度もリフレインする言葉に、私は空照の元へ向かった。
 撫でたら、さらさらしたいつもの触感だった。
 冷たくこわばっている。
 やはりもう息をしていない。
 触れたことで何かが解けて涙が溢れた。
 
『ママが撫でてくれたから、すぐ帰るよ』
 力及ばず空照を喪い、親元のキャッテリーに病状の報告はしていたが、すぐに報告する勇気がなかった。
 頭の中で、すぐ連絡してと囁かれ、これも私が昨日、理性で考えていたとは全く違う行動をすることになった。
 私は彼らがにゃーんって鳴くと「お母さんよ」と返すのがクセで
 ママと名乗ったことはない。
 空照くんは私をママと呼んでいたんだ。
 なんとも不思議な空照との問答です。


 私が死に異様な執着があるのは、空照の喪失感でつらつら考えていてふと思い出したことがあります。
 私が4歳くらいの頃、執拗に母親に死んだフリをされていたのです。
 息をしているか、鼓動があるか、4歳の子供が必死に確認して、死んだかもと思って、何度か泣いたこともあるのを思い出しました。
 母がなぜそんなことをしたのか…。
 母自身が生母を3歳で亡くし、親身に愛してくれた養母も17歳で亡くし、自身も身体が弱い自覚があり、夫は自分が死んでも子供を大切にしてくれる人が第一の条件だった。
 そんな母が家事がうまくできず家が散らかっていても叱らず、辛い時に休めたからここまで長生きできたとも言っていた。
 母自身も死に直面していたのだと思うが…。
 それでも幼子にするにはあまりに酷く、結局、それが私のトラウマになっているのだと思う。
 そして、ここに今浮かんだことは書き残しておかないと…。
 空照が亡くなったがキーポイントで思い出したことだから、散逸してしまう可能性大のことを思い出した今と書き残してます。

※写真の上が空照くん、下が帝阿良ちゃんです

 

 

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