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中学3年の暗黒時代に描いた「JAP」という絵にまつわるエトセトラ。

僕の暗黒時代真っ只中であった酒田市立平田中学校3年の時(1995年)、夏休みの宿題で、家に引きこもって描いたこの絵。

その当時、中学校のクラスのみんなは、夏休み明けに開催される運動会の準備などで集まって盛り上がっていた。でも、僕はその輪に入る勇気がなく、夏休みの間じゅう、家の中でこの絵を描いていた。そう、クラスメイトとも会わず、家族とも会話をせず、心の支えはB'zの音楽だけだった頃。でも、この絵を描くことには不思議なほど没頭していた。

完成した絵を夏休み明けに宿題として提出すると、いつの間にか美術の先生がこの絵を山形県の「こども県展」に応募していた。そしてその絵が、こともあろうか、9,700点余りの応募作の中から学年ごとに選ばれる最高賞「県展賞」を獲得することとなったのである。
自分としては「JAP」というタイトルをつけていたのだが、美術の先生から「いこい」というタイトルを勝手につけられて応募されていたのが納得いかなかったので、改めて「JAP」というタイトルでここに発表したい(笑)。

↑これが当時掲載された山形新聞の記事。僕の作品に対する審査員評は以下の通り。

『中学生の絵として、新しい方向を示してくれた作品。緻密さと大胆さが同居し、 色、形ともにミスマッチなところがあるが、それが魅力的。 一つひとつが独立していながら、 全体として調和がとれている。内容的な深さも感じさせる。』

ちなみにこの絵の左下に描かれている建物に、
「19・49」
という赤い数字がある。

これは、夏休み明けの中学校にこの絵を持っていったときに、同じクラスで仲の良かった、後ろの席の雄一君から赤いボールペンで落書きされたものである。

それが、「水彩絵の具以外の画材を使っていて斬新である」という審査員の評価を得たと後で聞いた。

雄一君は、ほとんどクラスの誰とも会話をしなかった僕に対しても気さくに接してくれる、唯一と言っても良い存在だった。口は悪いけど、とても優しい心を持った奴だった。

そんな雄一君は、もう今は天国にいる。
彼は24歳の冬に、事故で突然亡くなってしまった。

ちょうど、厄年の歳だった。あいつは、厄払いに行くような性格じゃなかった。僕も厄払いに行ってなかったのだが、同じ年に糖尿病になったぐらいで済んだ。

雄一君のお葬式には、奥さんと、まだ幼い息子さんもいた。あれからもう、11年半ほどが過ぎた。奥さんと息子さん、元気かなあ。

この絵の「19・49」という数字が何を表しているのか、今となっては知る由もないが、この数字を見てると、雄一君が生きていた証がここに刻まれているようにも思える。

そしてそのたびに、あの時の雄一君に感謝しながら、これからもしっかりと生きていこうという思いを新たにするのである。

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