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ひのえとかのえの夢十夜

ひのえとかのえの夢十夜 一夜目

 こんな、夢を見た。
 気がつけば、彼は市にいた。ただの、市ではなく、ただの、店でもない。
 羽根ばかりが売られている場だ。
 白い鳥のもの、孔雀のもの、蝙蝠のもの、あるいは見たことのない、ふわふわとした膜。あらゆる羽根が、ここでは売られていた。市は全て、そのような有様だ。なにか特別なものを、かならず扱っている。 
 それ以外のものは、ない。なにひとつとして。
 ふわふわした心持ちで、彼は立っていた。
 そして、羽根を扱う店主に尋ねた。
「女は、売っておりませんか?」
「女は当店では取り扱いがございません。羽根が生えておりませんので」
「いえいえ、羽根が生えていそうなほどに、美しい、女です。少女です。私はその人を、ずっと、ずっと探しているのです」
 あぁ、そうだと、彼は思う。彼は少女を探しているのだ。彼女はおまえさまと、人を呼ぶ娘だった。あるいは旦那さまと、時に兄さまと。そんな、とりとめのない、美しい少女であった。彼の真剣な顔を見て、店主は気の毒そうに首を横に振った。本当に、かわいそうだと言うように、何度も、何度も。仕方なしに、彼は市をさまよった。
 ここにはなんでもある。特別なものはなんでも。だが、彼女はいない。
 あぁと、彼は足を止める。自分にとって、彼女は特別なものではなかったのか。だが、そんなはずがないのだ。
 彼にとって、彼女は特別な少女だった。それがどんな誰かさえ、よくわからないまでもわかる。いっとうとっときの娘だった。
 そこで、彼は足を止めた。あぁと、彼はもう何度目かの息を吐いた。
 あぁ、あぁ、そうか。
「ここに、いたんだね」
 そうして、彼は店先に置かれていた、切断された白い足に頬擦りをした。

「おまえさま、起きてらして?」
 目を覚ますと、隣で少女が笑っていた。彼女はひのえだ。そう、彼はその名前を思い出す。彼女は彼の隣に常にいる娘だ。彼、かのえが熱を出したので、今日はずっと特に傍にいたはずだ。
 見ればその足はちゃんと体についていた。かのえは溜息をつく。
「夢を、見たよ。奇妙な、夢だった」
「あら、兄さま。おやおや、それは」
 おかわいそうにと、ひのえは言う。夢の内容を聞くことすらなく。
 きっと、また不思議な夢を見るのだろう。
 そう、庚は確信もなく、思った。

ひのえとかのえの夢十夜 二夜目

 こんな、夢を見た。
 彼の前には、翠の海が広がっている。宝石を溶かし込んだような色をした水が、細かな泡を浮かべていた。
 足元では飽きることなく、波が寄せては返しを続けている。
 その直ぐ間近に、彼は立っていた。
 あほうのように呆然と、彼は周囲を眺める。
 あぁ、また、彼女がいない。
 辺り一面には白い砂浜が広がっていた。白く、しろく、細かな砂が、みっしりと一粒の欠けもなく敷きつめられている。自然な砂浜としては、おかしな感じだった。百年も、千年も、ここはこのままあったのだろう。そう思わされる、奇妙な硬さをまとっている。
 彼女は、いない。
 延々に続く、海と砂浜の狭間のどこにもいない。
 だが、気配だけはあった。
「あぁ、そうか」
 ふと、彼はその理由に気がついた。なんのことはない。
 この翠の海の全てが彼女だった。きっと、彼女は海に身を投げて死んでしまったのだろう。そして、美しい水そのものと化してしまったのだ。
 彼をおいて、逝ってしまった。
 そうして寄せては返しを、繰り返している。
「ならば、僕も行かないと」
 そう、彼は歩き出した。ふらり、ふらりと彼は海へ向かう。水は温かかった。羊水のような柔らかさがあった。足を洗われながら、彼は歩く。
 ふわり、ふわり、奥へと進む。

 おかえりなさいと、彼女に言われた気がした。

「兄さま、起きてらして?」
 そこで、かのえは目を覚ました。傍では、美しい少女――ひのえが笑っている。君は海に身を投げたのではなかったのか。そう、かのえは尋ねかけた。だが、不意に先程までの光景は夢だと気がつく。
 君は海になっていたのだよと語ると、ひのえは首を傾げた。
 不思議そうに、彼女は言う。
「私は海に食べられてしまったのですか? おまえさまをおいて?」
「あぁ、そうだね。そうとも言えるだろうね」
「私は兄さまをおいて逝くことはありませんよ。絶対に。けれども、そうですね、もしも、兄さまの方が海に飛び込んで、海になってしまわれたなら」
 私は海をすべて呑むでしょう。
 一滴たりとも、残しはしません。そう言って、ひのえは妖艶に微笑んだ。

ひのえとかのえの夢十夜 三夜目

 こんな、夢を見た。
 風船男の話をしよう。
 それは一体何か。風船男とは風船を売り歩く男のことだ。真っ黒な服を着ており、その全身はまるで影法師のように見える。真夏の濃い影のように、自身の姿は徹底的に隠しながら、風船男は風船を売る。
 赤や黄や橙や緑や青や桃や紫の色鮮やかな風船たちを。
 風船男は言う。風船はいらんかね。
 特別な風船だよ。
 風船男の風船は特別だ。
 何せ、中に人の頭が入れられている。
 女のもの、男のもの、少年のもの、少女のもの、老婆のもの、老爺のもの。様々な頭が、風船の中にはしまわれていた。よくよく覗いてみるといい。黒髪や白髪が、内側のゴムにぺたりと貼りついている様が見えるだろう。あるものの唇が捲れあがり、歯が剥き出しになっている様が拝めるだろう。風船の色越しにも、死者たちの頬は白く蒼褪め、血の気のないのが伺えるだろう。そんなものが入れられた風船を、風船男は売っている。
 風船はいらんかね。男は言う。特別な風船だよ。
 だが、特別な風船だからと言って、欲しがる人が多いとは限らない。何せ、死者の頭部が入れられた風船だ。
 何故、男がそんなものを売っているのか。誰も知らない。
 当然のように、彼も知らなかった。だが、彼はそんなことには構いはしない。彼にはもっと重要なことがあった。 
 彼女の頭が、風船の中に入れられてしまっていることだ。
 そうして、彼の手の中にはナイフがあった。故に、彼は風船男を刺した。当然だろう。だって、彼女の頭は、彼にとっては体についていて欲しいものだったのだから。
 風船男の体には穴が開いた。ぷしゅーっと音がして、風船男から空気が抜けた。男は真っ黒で平坦なただの影になってしまった。男の手から離れた風船は、空へ向かって飛んで行く。勿論、彼女の頭もだ。さてどうしようと彼は思った。彼女の頭がどこかへ行ってしまっては、彼には生きている理由がない。そうして、彼の手にはナイフがあった。
「そうだ、こうしよう」
 彼は自分の腹を刺した。当然だ。だって、もう、彼女はいないのだから。

「旦那さま、起きてらして?」
 そこで、かのえは目を覚ました。傍では、美しい少女――ひのえが微笑んでいる。かのえは、彼女に風船男の話をした。
 まぁ、おかしなことと、ひのえは手を叩いた。
「旦那さまの頭が入った風船なら、私はぜひとも、ひとつ欲しいですね」
 そう、ひのえはいつまでもころころと笑っていた。
 

ひのえとかのえの夢十夜 四夜目

 こんな、夢を見た。「硝子の花が咲いたよ」 そう、高い声がさえずった。
 見れば、アライグマの子供が駆けていくところだった。太い尻尾を揺らしながら二足歩行もこなす、立派なアライグマだ。彼は何度も繰り返す。
「硝子の花が咲いたよ。千年に一度咲く花だよ」 なるほど、貴重な花らしい。更に、声は誘うような調子で続けた。
「硝子の花が咲いたよ。千年に一度咲く花だよ。とれば願いが叶うといわれている花だよ。機会を逃させば、一生お目にかかれることはないよ。何せ、どんな宝石よりも貴重な花だよ。掴みとれば、あらゆる夢が自在になる花だよ。どんな魔法よりも、尊く、偉大な花だよ。けれども、硝子の花は危険だよ。危険だから決して触れてはいけないよ」 
 誘惑しているのか、警告しているのか、わからない調子だ。ただ、どことも知れない、駅舎のベンチに座りながら、彼は思った。
 硝子の花。彼女のお土産には丁度いいだろう。
「もし、その硝子の花はどこに咲いているのですか?」
「あぁ、お客さん。それは貴方の足元に」 
 言われて、彼は視線を落とした。硝子でできた一輪が見事に花開いている。それは不思議な花だった。息を呑むほどに透明で、不純物はひとつも入っていない。水で描かれているかのようだ。本当に硝子なのだろうかと疑うほどに、あまりにも透き通っている。
 そっと、彼は指を伸ばした。硝子の花を摘み取ろうとする。瞬間、硝子の花は割れた。「あっ」 彼の肌に透明な棘が幾千と刺さる。そこから彼の肌も透き通り始めた。肉が最初は液体となり、徐々に性質を変えていく。ぐるりと茎の形をとり、指は何事もなかったかのように硬化した。頭部や胴体は圧縮され、大きな花弁と化す。それは綺麗に茎の先端に収まった。
 彼は怖いほどに透明な姿を咲かせる。
 あーあと、アライグマは呟き、続けた。
「硝子の花がまた咲いたよ」 
 何が千年に一度かと、彼は思った。

「おまえさま、起きてらして?」
 そこで、かのえは目を覚ました。傍では美しい少女――ひのえが笑っている。彼は彼女に夢の話をした。すっかり騙されてしまった。そう、かのえが言うと、土産なぞいいですのにと、ひのえは笑った。だが、花をぜひとも届けたかった。彼がそう嘆いた時だ。
「あっ、おまえさま、そこに」
 夢で棘が刺さった瞬間、現実では指を噛みでもしたのだろう。
 布団の上に、血の花がひとつ咲いていた。

ひのえとかのえの夢十夜 五夜目

 こんな、夢を見た。
 奇妙な夢も、五夜も続けば慣れてくるものだ。
 そう、彼はぼんやりと考える。
 今宵、彼は一面の砂の海にいた。砂漠のようにも見える。だが、そうではない。海岸にも似ている。だが、それでもなかった。彼はここがどんな場所だか知っている。何故なら、遠くに鯨の骨が見えるからだ。
 あるいは人が、獣が、肉を失い、朽ち果てている。
 ここの砂は一粒一粒、すべてが骨でできていた。
 骨が積み重なり、白い砂の海を造りあげているのだ。さてと、彼は思った。ここには、彼女の骨もあるはずだ。それを探さなくてはならない。百と、千と、万と、億とある粒の中から、愛しい人の欠片を掴みださなくてはならなかった。それは途方もない作業だが、彼にしかできないことだ。だが、そのために、彼が砂の海へ手を伸ばした時だった。
 泣き声が聞こえた。
 砂の中心で、女が泣いている。
 彼女、ではない。
 ひとりの見知らぬ女が、泣いていた。女は不思議な白い髪を持っている。サラサラと、雪のように輝く、美しい髪の毛だ。それを背中に流しながら、彼女はほろほろと涙を落としている。どうしたのかと、彼は近寄った。
 骨の砂を掬いつつ、女は泣きながら言う。
「私は大切な人をここに落としてしまったのです」
「あぁ、それはお気の毒に。この辺りは一面骨の海です。ならば、見つけ難いでしょう」
「えぇえぇ、ですから、代わりを見つけなければなりません。私はそういう女ですもの。大事な者がいなければ、息もできないのですもの。そうして、できているのですもの」
 彼は嫌な予感がした。
 女の髪とは異なり黒い目が、じとりと彼を見上げたからだ。
 彼はそっと後ろに下がる。その足元で砂が崩れた。ざざざざざざざ、と骨が鳴る。白が崩れて、波のような音を立てる。だが、何かが妙だ。彼が歩いた程度でざざざざざざとそんなざざざと音がざざと鳴るものざざざざざだろうか。ざざざざざざざざざと白が舞い上がり、ざざざざと女の手が伸びて、ざざざざざと骨が頬に当たり、ざざざと声が呑み込まれ、ざざざざざざざざと骨が、無数の死骸がざざざざざざざざざと泣くように。
「つかまえた」
 唯一明瞭に、ざざざざと、ざざと音の中、ざざざと、女が笑った。

「兄さま、起きてらして?」
 ひのえは問う。だが、かのえは目を覚まさない。彼女は手を伸ばす。ひのえはかのえの頬をそっと撫でた。反応はない。
 目を閉じたまま、彼は深い眠りの中へと落ちていた。

ひのえとかのえの夢十夜 六夜目

 こんな、夢を見た。
 彼女は水面に足先を浸している。
 彼女の周りには、鏡のような湖面が広がっていた。
 そこに、ひとつ、ふわりと花が咲く。ほのかに白く光る花だ。美しく咲き誇り、花は緩やかに枯れていく。
 その様を眺めながら、彼女はつまらなさそうに足先を振った。
 ちゃぷちゃぷと、水が鳴る。子供のように伸びをして、彼女は呟いた。
「あぁ、兄さまはどこでしょう?」
 美しさにも拘わらず、彼女は周囲の風景に飽きていた。それに、彼女には目的がある。彼女は消えた大事な人を探さなくてはならないのだ。彼は彼女にとって命よりも重い存在だった。彼は優しく、ぼんやりとしていて、やわらかな人だ。彼女は彼を愛している。
 なればこそ、一刻も早く捜し出さなくてはならない。
 それに、彼女は知っていた。目の前の光景は本当は美しくなどないのだ。
花は咲き、また枯れる。その中心には、人間の目玉がある。
 ねっとりとした蜜に包まれながら、目玉はぎろりと視界に入るすべてを睨んでいた。まるで、なにもかもが憎いといった調子で、ぐるり、ぐるりと花の奥底で回っている。
 彼女は思う。手を伸ばせば、眼球は歯に変わるだろう。そうして、人の指を食い千切るのだ。するりと、彼女は立ちあがった。美しくよそおった、恐ろしい花達を無視して、彼女は歩き出す。ぐしゃり、ぐしゃりと、彼女は素足で花を踏み潰した。その度、血液がぱっと散り、湖面を紅く濡らした。 
 点々と、水を染めながら、彼女は歩き続ける。
「兄さま、私の愛しいおまえさま。どちらですか?」
 返事はない。もしやと、彼女は思う。この花達の眼球のいずれかひとつが、彼のものなのではないかと。だが、それは錯覚だ。そう、彼女は気づいていた。ここに、彼がいる。そう思いこむのは危険だった。
 強く思い込んでは、少しずつ、夢に呑まれてしまう。
 そうして、帰ってこられなくなるのだ。彼のように。
 だから、彼女は花を殺して歩く。
 ぎゃあと、ひとつ、花は啼いた。

 そこで、ひのえは目を覚ました。隣では、かのえが眠っている。
 彼女は彼を追いかけて、夢を見ることにしたのだ。だが、不思議な夢の中に、今回、かのえの姿はなかった。
 ひのえは小さく溜息を吐く。そうして、もう一度眠ろうとした時だ。あることに、彼女は気がついた。指先が濡れている。見れば手近な棚から水が垂れていた。何かの拍子に花瓶が倒れたらしい。ひのえはそっと手を伸ばす。
 水は綺麗に足裏全てを覆っていた。
 まるで、涙のようにも思えた。
 


ひのえとかのえの夢十夜 七夜目

 こんな、夢を見た。
 雨だ。
 雨が降っている。
 ただの雨ではない。雫の中には、鋭いものたちが混ざっていた。
釘やハサミ、包丁に針、様々な危険な代物が、空から降り注いでいる。彼女の傘に当たり、それは鋭い音を立てた。
 だが、厚く丈夫な布地を突き破ってきそうな様子はない。
 紅い傘を首にかけて、彼女は目の前の男を見つめている。
 元々、傘は男が持っていたものだ。それを、彼女は迷うことなく奪った。そうして、自身の身を守っている。男の体に釘が刺さった。ハサミが頬を裂き、包丁が肩を貫き、針が頭を飾る。
 凄惨なそれらの有様を眺めながら、彼女は淡々と男に尋ねた。
「兄さまの居場所をご存知?」
「夢の、夢の深くには恐ろしいものが棲んでいる」
 男はそうとだけ応えた。彼の声は震えている。実際に、恐ろしいものを見たことがあるかのようだ。彼女は話の続きを促さなかった。ただ、無言で待つ。すると、男は雨と血に塗れながら、ぽつり、ぽつりと言葉を落とした。
「夢の中に棲みすぎて、出られなくなったものだ。そうしたものは時折、生きているものを連れていく。前は骨でできた砂原にいた。今はどこにいるのかてんでわからない」
「つまり、私の大事な兄さまはその人に囚われてしまったと?」
「あぁ、そうだろう。恐ろしいものは恐ろしいのだ。恐ろしいことをなす」
 そうと、彼女は応えた。紅い傘をくるりと回し、彼女は振り返る。
 背後ではぐさぐさと肉を抉る音が続いていた。傘を失い、男は大変なことになっている。だが、彼女は構わなかった。男は、彼女の大切な彼ではないのだから。彼女の知ったことではないのだ。 
「あんたも十分に恐ろしい」
 男は言う。彼女は応えない。
「恐ろしいものだけが、恐ろしいものに敵うのかも知れない」
 彼女は無言のままだ。その時、後ろで一際大きな音が響いた。
 流石に、彼女も振り向く。
 男の首が、断頭斧によって綺麗に切り落とされていた。

 そこで、ひのえは目を覚ました。隣では、かのえが眠っている。
 白い頬に、彼女は手を伸ばした。夢の中で会った、見知らぬ男の死について、彼女はなんとも思わない。だが、彼がもしも危険な目に遭っていたらと思うと、たまらない気持ちになった。
 もう少しですよ、兄さま。
 彼女は語り掛ける。応える声は、未だなかった。


ひのえとかのえの夢十夜 八夜目

 こんな、夢を見た。
 彼女の前には、螺旋階段が伸びている。
 まるで巻き貝の内側だ。延々と、彼女の視界には白い階段が続いている。闇の中にただそれだけが存在していた。眩暈がするような光景だ。一歩足を踏み外せば、首の骨を折って死ぬだろう。
 だが、彼女は恐れもせずに足を運ぶ。その背中には紅い傘があった。
 以前見た夢の中で貰ったものだ。一面の白の中、彼女は紅を回す。
 くるり、くるりと、鮮やかな色が廻った。彼女は小さく唄を謡う。
 ―――歌を忘れた金糸雀は後ろの山に棄てましょか
 ―――いえいえ それはかわいそう
 彼女は大切なことは全て覚えていた。
 夢の中にあってさえ、彼女は忘れることはない。
 大事なことはひとつだけ。愛しの人を目覚めさせることだ。そのために、彼女は夢の奥底へ降りていく。やがて、周囲の光景は色を変え始めた。闇は肉のような紅になっていく。階段は軋み、砂が降り始めた。白い砂は全て骨でできている。この夢は、かつて『恐ろしいもの』がいたという、骨でできた砂原と繋がっているのだ。ならば、後はここを下るだけでいい。
 そう確信しながら、彼女は足を進める。だが、途中で歩を止めた。
 階段の白に紛れて、一本の髪の毛が落ちていたのだ。白く長い、長い、女の髪の毛だった。それを手にとり、彼女は嗤う。
 ぞっとするような笑みを、彼女は浮かべてみせた。
「逃げても無駄ですよ。どこまでも、私は追っていきますからね」
 どこか遠くで、ざわざわと怒りの声が鳴った。だが、彼女は気にしない。
 髪の毛をひらりと捨てて、ひのえは足を速めていく。
 やがて、カツンと、彼女は階段の底に着いた。
 辺りには、紅い世界が広がっている。彼女は知っていた。ここは、夢の中に住み着いてしまったものの巣なのだ。その者の子宮の中のようなものだった。自身の大切な人は、ここに連れこまれたに違いない。ならば、やることは決まっている。彼を探して、彼女は歩く。出て行けと、誰かが言った。
 出て行け。それ以上進むのならば容赦はしないと。
「まぁ、なんてご冗談を」
 すらりと、彼女は懐から刃を引き抜く。
 夢の中でも、彼女は忘れることはない。
 全てのものは殺せるのだ。

 そこで、ひのえは目を覚ました。隣では、かのえが眠っている。
「後少しですよ、兄さま。えぇお前さま、本当にあと少しで迎えに行けます」
 そう微笑んで、ひのえは語りかける。
 身を翻すように、彼女は眠りの中へ戻った。


ひのえとかのえの夢十夜 九夜目

 こんな、夢を見た。
 彼女の前には女がいる。女は不思議な白い髪を持っている。
 サラサラと雪のように輝く美しい髪の毛だ。それを背中に流しながら、女は腕の中にひとりの青年を抱えている。
 女に微笑み、彼女はすらりと手を前に伸ばした。
「返してくださいまし。そちらは私の大切な旦那さまです」
「嫌よ嫌よ。返すものですか。私はそういう女ですもの。この人が私の新たな大切な人。大事な者がいなければ、私は息もできないのです。そうして、できているのですもの」
 そう、女は何度も頭を振った。彼女は察する。夢の奥深くに囚われるほど、この女にもなんらかの事情があったのだろう。そうして夢から帰れなくなったあと、女には大事な誰かが必要だったのだろう。
 他者を愛でなければ、息もできない心地だったのだろう。
 だが、そんなこと、彼女には微塵も関係がない。
「返してくださいまし」
 すらりと、彼女は刃を抜く。
「兄さまは私のものです」
 ぐさりと、彼女は刃を刺す。
「他の誰のものでもありません」
 ぐしゃりと、彼女は刃を捻る。
「私も兄さまのものなのです」
 ざくりざくりと、彼女は刃を振るう。
「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ、返してくださいまし」
 やがて、血まみれの女は虫の息でわかったと諦めた。
 返り血だらけで、彼女は頷く。そっと、彼女は、囚われていた愛しい人を受け取った。ゆっくりと彼が目を開く。
 紅で汚れた彼女を、彼は訝しそうに眺めた。彼女は甘く囁く。
「お待たせしました、帰りましょう、兄さま」
「………きみは、あぁ、だれだっただろうか」
「私は兄さまの大切な者です」
 はっきりと、彼女は言いきった。彼女が彼にとって本当は何なのか。妹なのか恋人なのか。はたまた別の何かなのか。そんなことはどうでもいい。
 ただ、それだけは確かだ。
「そして兄さまも、私の大切なお人です」

 部屋の中、二人の人間が並んで眠り続けている。
 まだ、ひのえもかのえも目覚めない。


ひのえとかのえの夢十夜 十夜目

 こんな、夢を見た。
 夢の奥の奥底で、彼は見知らぬ女に囚われた。そのはずだ。だが、目を覚ませば血塗れのよく知る少女がいた。彼女は、彼の大切な人だ。
 だが、上手く名前が思い出せない。
 辺りの光景も、ただただ真っ白だ。
 記憶を振り返る助けにはできそうもない。
 そこで彼は気がついた。ここは夢の中だ。
 彼と彼女は未だ目覚められてはいないのだ。
「兄さま、私は夢に囚われて、戻れなくなった女を刺しました」
 彼を抱えながら、彼女はふとそんなことを口にした。まるで今朝は散歩をしたのだと語るような調子で。彼の髪を撫でながら、彼女は懺悔を紡ぐ。
 謡うように彼女は続けた。
「おまえさまを取り戻すためでした。時間を巻き戻したとて、私は何度も幾度も、刺すでしょう。けれども、こんな物騒な女は夢の中にずっといた方がいいのでしょうか?」
 透き通るような微笑みを浮かべ、彼女は彼に問いかけた。
「兄さまはどう思います? 兄さまとふたりなら、私は地獄の果てにでも棲みましょう。もちろん、兄さまがひとりで夢から出たければ、出ていただいても構わないのですよ」
 あぁと、彼は思う。彼女の血塗れの手を、彼はそっと握った。この少女は美しい少女であった。また、彼のために、人を殺すことを厭わない娘でもあった。その恐ろしい事実を噛み締めながらも、彼は口を開いた。
 告白のように、彼はその言葉を彼女へ告げる。
「僕は、君と一緒にいたいよ」
 彼女は、微笑んだ。心の底からの、幸せそうな笑みだった。
 彼は強く彼女の手を握る。そうして、思ったことを続けた。
「起きよう、ひのえ。君が誰を刺そうと、誰を殺そうと、僕は別に構いはしない」
 あぁ、こんなだからと彼は思う。こんな人間だから、彼も夢に囚われそうになるのだ。だが、それこそが真実だった。
 彼にとって彼女は大切で、それ以外はどうでもよかった。
 そうして、夢の中では全てが曖昧で、彼女の顔がよく見えない。
「だからね、目覚めよう」
 ふたりは強く手を繋ぐ。
 そうしてまるで心中をするように、底のない白へ身を投げた。

「おまえさま、起きてらして?」
 目を覚ますと隣で少女が笑っていた。彼女はひのえだ。そう、彼はその名前を思い出す。彼女は彼の隣に常にいる娘だ。
 滑らかな頬に手を伸ばし、かのえはゆるりと囁いた。
「起きているとも。おはよう、ひのえ」
「えぇ、兄さま、おはようございます」
 ひのえは微笑む。奇妙な夢はもう見ないだろう。
 そう、ふっと、かのえは考えた。

<了>


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