記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

プレナパテスとかホシノとか耳とか[ブルーアーカイブ]

“何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語”

ブルーアーカイブ -Blue Archive-という物語について、2024/6/11時点でのいくつかの散文です。


「対策委員会」編 、「エデン条約」編、「あまねく奇跡の始発点」編、「百花繚乱」編の重大なネタバレを含みます。








・プレナパテスと私の違い



同じ状況、同じ選択

ここでは昨今話題にあがる、プレナパテスとの分岐点は地下生活者ではないか? という問いを深掘っていくことで、その可能性を探っていく。
テクストの幅を広げる行いであり、必ずしも答えを決定するものではないことを前置きしておく。


プレナパテス――無名の司祭によって偽りの先生の名を与えられた彼の者の旅路は、なぜ最終編を迎えたのか。

まず初めに、私たち画面を通してキヴォトスを観測する先生プレイヤーが現状認識する世界は、みっつあると仮定する。


第一に、連邦生徒会長が失敗した世界。
超人とまで称される連邦生徒会長が主体者となり、世界を決定しようとしたその末路は、この世界を訪れただれもが目にする始まり、そして4th PV並びに始まりの物語にて垣間見る、七つの終わりによって語られる。
この世界において先生とは見守る存在であって、責任を負うものには至らなかった。
対話を通して理解を得ることはできず、彼女がその心延えを理解するのは、捻じれて歪んだ先の終着点においてであった。


第二に、欺く者プレナパテスとして最終編にたどり着いた先生が責任を負う世界。
彼の者がクリティカルポイントにて病床から立ち上がる際に手に取る『大事な物』は、なんの変哲もないひとつの折り鶴であると、崩れ落ちるアトラ・ハシースの箱舟と終わりを共にする遺品からわかる。
だが私たちは、それが特別な物であると知っている。
3rd PVにて「いつもありがとう先生」の手紙と共に置かれた折り鶴。

このPVについては、冒頭の黒板絵でプラナとアロナの姿が同時に確認できることや、一周年のお祝いである旨(世界内では一年が過ぎたともとれる)が描かれているため、必ずしも彼の者がたどり着いた光景とは言えないのかもしれない。
けれど、知っている。
同じ状況、同じ選択。
経験はなくとも、先生は同じ選択をすると。

ならば同様にあの光景は、世界の責任を負うものとして先生が導いた結果であるはずだ。
学園の垣根を越えて、些細な幸せを祝うため、一堂に会す。
そんな奇跡に。


第三に、私たちが主体として辿るこの世界。
そしてプレナパテスの最終編。

託された責任の続きを果たす。
青春の物語を、見守っていく。

先生の攻略法


同じ選択をする先生は、同じ状況に立たされる。
はたして、第二と第三を分ける状況とはなんなのか。

分岐点として近日話題にあがるのは、「対策委員会」編 第3章にて登場した追放されたゲマトリア、地下生活者の攻略法である。
世界観をコデックス――RULE BOOK――と捉えるその者は、キヴォトスに敷かれたジャンルを攻略すべく画策する。


先生を攻略しようとした存在として、「エデン条約」編 第4章にて相対したベアトリーチェ、「あまねく奇跡の始発点」編 第1章にて個人の脆弱性を突いたジェネラル、「百花繚乱」編 第1章にて舞台をしつらえた箭吹シュロがあげられる。

ベアトリーチェは、先生を先生と捉え、ゆえに学園青春もののジャンルの中で責任者たる「大人」のテクストを軽視し、先生が教えた光へと進む生徒の歩みの前に失敗を演じた。

ジェネラルは、先生という特異性を踏まえたうえで、キヴォトス外から訪れたジャンルのプレイヤーとしての脆弱性を突き、孤立させることに成功した。
しかし、先生という役割は教え導くもので、主体は生徒であることを見誤ったため、その計画は失敗に終わった。

箭吹シュロは、学園青春ものというジャンルを、先生と生徒というテクストを読み込み利用した存在と言えよう。
少々巻き戻り「エデン条約」編 第3章では、ジャンルの崩壊が起きていた。

怨恨、憎悪、虚無――導かれる殺人。
はたして、学園青春ものは崩れ落ち、先生は凶弾に倒れた。

それでも諦めない少女がいた。
平穏を取り戻そうと立ち上がった少女たちがいた。
青春の物語はひとつではない。
“たとえ全てが虚しいものだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない”
私たちの物語を諦めなかったからこそ、ジャンルは保たれ、先生の存在は確立された。

つまり、憎悪や裏切りを煽り、ジャンルを氾濫させれば、先生は先生というテクスチャを剥がされる。
ただの大人となり、あるいはジャンルによっては別の役割を帯びる可能性もあるが、それは生徒の先生ではない。

シュロの百物語かいだんは、喉元まで卑近した。

しかし彼女はその露悪……あるいは執着――それは物語を愛するがゆえに、決定された結末に醜くこびりつく読点のような存在を扱き下ろした。

そして問うた。先生に生徒を。
ゆえにその喉は、言葉を紡ぐ。

シュロが扇動した感情は、よくある普通なことに仕分けられ、氾濫は静まった。

あとにはただ、日常せいしゅんを諦めない少女たちが立ち上がった。


このようにして、先生を攻略する手段は提示されている。
地下生活者が行ったシャーレ爆破も、肉体の限界を突いたシンプルながら強大な効果を望める手段であり、それは文脈のうえに成り立っている。

事前に違和を察知し、起こりうる悲劇はプラナの手によって防がれた。連続する爆破もアロナによって遮られるだろう。
しかし肉体は欠損でのみ限界を迎えるわけでなく、その内部が侵されれば致命となる。
一酸化炭素中毒で倒れたであろう先生。彼の者の欠如によって、生徒の混乱は加速する。


結論に走ろう。

「あまねく奇跡の始発点」にてプレナパテスとシロコは、ゲマトリアを襲撃した。
“……我々の所在や弱点……攻撃のタイミングに至るまで、すべて見透かされているとはな”
そうしてすべての秘儀は奪われた。

色彩の嚮導者という不可解な存在であるから可能だと思った。
無名の司祭に利用される存在であるがゆえ、秘儀を奪ったのだと想像できる。

しかし、ふたりが別世界の先生とシロコと判明した今、意味は別の景色を見せる。
彼女は言った。
“私が経験してきた戦いは、あなた達のソレとは規模が違う”
“暗黒銀行に、連邦生徒会の秘密金庫……大切な思い出たち……”

現時点で私たちの知らない戦いを、彼女たちは経ている。
ならば、そう。
ゲマトリアとの相対。
そのようなシーンも、その記憶に刻まれているのだろう。

地下生活者との接触は、フランシスが浮かび上がり、新しい舞台への変化を必要したからだ。
それには最終編を通り過ぎる必要がある。

しかし、ゲマトリアとの相対があったのなら、あるいは混乱は予測される。

その最中に地上への導き手が現れたのなら、地下生活者は先生を、キヴォトスという世界を攻略するべく動くだろう。

同じなのは状況。別の手段で肉体の限界に迫られたのなら、プラナには捻じれて、歪んで、不愉快な、そんな記憶だけが残っている。

今回先生が九死に一生を得たのは、プラナとアロナが――あるいはアロナがいたからこそかもしれない。計算は正しく、イレギュラーなA.R.O.N.Aの存在が地下生活者の知る聖櫃の奇跡を上回った。

地下生活者の知啓は、先生の命に届きうると、仮定できる。


もちろん反論は浮かぶ。
ゲマトリアを壊滅に追い込むのだとしても、生徒に命を奪わせる行為を先生が許容するはずはなく、ゴルコンダがフランシスに入れ替わるような事態は起きないのではないか。

同じ選択を繰り返してきたのなら、色彩の到来は決定されており、最終編に類似する事件が起こっているのではないか。
あるいはそれこそが、プレナパテスを導いた原因なのかもしれない。


大人のカード


(2024/6/18付記)アニメでの大人の戦いを観ていて、「大人のカード」に言及するのを忘れていたのを思い出した。

「大人のカード」の作用について整理していく。
人生を、時間を対価として得られる力と示されたそれは、使用することで我々プレイヤーが育成した生徒を編成することができる。(シナリオにおいては、そのシナリオに適応した生徒での戦闘があらかじめ決定されている)
神秘の顕現と換言することもできるだろう。

それはメタ要素的に捉えられる体験をプレイヤーにもたらす。
人生の選択を、ブルーアーカイブというソーシャルゲームで遊ぶことに費やす。
これによって食事や睡眠の時間を削り、ほかのメディアにかかわる気力を減らし、人間関係の発展の機会を損なう(これらはブルーアーカイブという体験を通して反転の要素があることに留意したい)。

生徒募集や育成リソースの確保のために、我々は仮想の記録媒体に、金銭という物質的物品に交換可能な価値を提供する場合がある。

そうした積み重ねによって、キヴォトスに在籍する生徒では踏破不能な脅威を取り除く。
不可解な存在であるゲマトリアですら把握できていない、不可解な「大人のカードもの」。

さて、先生が「大人のカード」を使用する場面を思い出そう。

「エデン条約」編 第3章にて、完成された太古の教義ヒエロニムス。
「エデン条約」編 第4章にて、複製ミメシスされた聖徒会(戦闘にはほかにアンブロジウス、暴走した動物ロボもいる)。
「あまねく奇跡の始発点」編 第2章にて、ゲマトリアの所持する「秘儀」と「検証結果」。
「あまねく奇跡の始発点」編 第4章にて、シロコ、A.R.O.N.A、プレナパテス。

高位の存在に至ろうとしたベアトリーチェや虚妄のサンクトゥム攻略において使用しなかったことから、生徒が主体となって解決できると判断した事柄では取り出さないことがわかる。

キヴォトスという世界を観測する我々の眼前にて初めて「大人のカード」を使用する際、先生は“……どうやら、反則みたいだね。”とつぶやいた。

反則が「大人のカード」を使用する理由であるならば、それはなんなのか。
生徒の危機に対して生徒の力が適応されない事態を「反則」と捉えているように思われる。

それを先生の力で退けることは、高いところに手の届かない子どもの代わりに背丈の優れた大人が手を差し伸べるような、本質的には台無しにする行為だ。
すべてを大人が代替すれば問題は起きないのだから。

ゆえに「大人のカード」もまた、「反則」なのだろう。
「反則」によって「反則」を対消滅させる。それが「大人のカード」の作用だと本稿では仮定する。

「反則」は生徒の可能性みらいを阻害する行為であると捉えたとき、それによって先生に代償が求められるのは自然なことなのかもしれない。
生徒を教え導く存在である先生が、彼女たちの未来を閉ざすのなら、それは先生という役割の終幕を意味するのだろう。

とはいえ、これは一面的な見方である。神秘と恐怖が表裏であるように、物事は多面的に観測できるはずだ。
メタ視点において我々プレイヤーの人生と時間は、ブルーアーカイブをプレイすることで消費されていく。しかし、この作品をプレイすることで精神的な充足を味わうひとが一定数いるだろう。
それは物理的な時間の減算があったとしても、食事や睡眠に対する不安を軽減する効果が見込める。

ブルーアーカイブをきっかけにしてさまざまな娯楽にふれることもあるだろう。リアルイベントに初参加する人だっている。
ブルーアーカイブを通じて新たな人間関係を結んだり、認められる自分自身を見いだしたひとだっているはずだ。

「大人のカード」が生徒の選択肢を狭めるものだとしても、彼女たちの眼前に立ちふさがる課題――それを越えてしまった脅威を取り除くことで、明日を提供する事実は忘れずにいたい。

やや脱線したが、「大人のカード」の作用を探ることで、対ゲマトリア戦の仮定を深める狙いがあった。
キヴォトスにおいて「反則」を適応し、なおかつ積極的にかかわりを持つ相手として現状ゲマトリアが仮想されるからだ。

これがプレナパテスと共にいたシロコが決済機能でなく、「反則」の側面を認知している理由だとも思われる。



余談だが、アニメ先生が「大人のカード」を所持しているのかという問いに対しては、持っていると結論している。理由については本項を読んでいただいたのなら雰囲気だけでも伝わるだろうと信じている。

では、その効果が映像的にどう処理されるかについては、プレナパテスが「大人のカード」にて石割りコンテニューというこちらでは実装されていない要素を使用していた通り、媒体によって異なる表現がされるのだと考えている。
アニメだと、その媒体を活かすのであればやはり出演している生徒が困難に立ち向かう、という図になるのだろうか。

インタビューからの引用になるが、先生は完成された存在、成長の果てに達した存在といったふうに扱われる。

ならば生徒もまた、一時的にそういった存在に援用されるの……かも。神秘が完成したりするのっていいことなのかはわからないけれど。どう思うよ、黒服。

・小鳥遊ホシノの視線の先にあるもの



小鳥遊ホシノとポスターの関係について考える。
アニメで、砂祭りのポスターを修復したのがユメである可能性を提示された。

自分自身で直したものを眺めているのなら、あの日の決別に対する罰だったが、ユメの手によるものなら罪と向き合ってるに他ならない。

なぜ、どうして。問いかけは自問でもあって、それは自傷行為だ。
自罰的であったのなら赦しが彼女を慰めることもあっただろうが、ホシノ自身がそれを望んでおらず、裁かれる日をどこか希求してるのではと思える。
ユメとの日々は届かない過去でありながら、今なお眼前にある現実だ。

ホシノにもたらされるべきは救いである。
「対策委員会」編 2章にて救いを手にしたホシノだが、先生の不在、ノノミの監禁、対策委員会という場所の危機――救いが瓦解していくことで、それはかつて手放してしまった存在ユメと一致する。

契約書が交わされた日からちょうど二年。
ユメを失った日に後輩を守って自らが失われることで、彼女との約束を守ると共に、先輩を守れなかったその罪を裁こうとしているようにも思える。

ホシノに救いは訪れるのだろうか。
夢が遺した足跡の先に、それはあるのだと信じる。

ユメはホシノを愛しており、ホシノはユメを愛している。
隣人を愛すということは、日常にありふれた奇跡だと思うから。


「ここにあったんですね。まったく……探しましたよ、……ユメ先輩」


・おわりに



最近よく考えるのは、伊落マリーの神秘についてである。

あるいは恐怖を適応することによって、その裏側である神秘の形象を逆説的に導くことも可能ではないか――そんな空論をこねくり回してみる。

マリーの頭頂にツンと並ぶ対の耳。
それを外気に晒すことがどれだけ淫靡かと説くことで、彼女の神秘は導かれる

私たちは知っている。体操服マリーの、その露出された耳のエロスを。
修道服に身を包んだマリーの、想像されるエロスではない。
直截的なそれは、印象派の画家により表象されたメタファーではなく、あまりに鮮明な現実だ。

それを隠すよう伝えるのは、大人としての責任、先生の義務だろう。
もちろん、マリーは恐怖する
大人から、先生から「耳がエロいから隠しなさい」なんて言われて怯えない少女ではない。

だが、ご存じマリーは真面目で貞淑だ。
新雪のように、足跡を刻み色を残す。
言葉は彼女を変える。

日々マリーの中では声が反響するだろう。
鏡を前にして自問するだろう。
この耳は、そんなにエッチなのかと。

エロスであるのだが、彼女は自身を崇高な存在であると自認しない。
慎ましやかなのだ。
ただ色欲のみを連想し、その罪を濯ぐべくウィンプルを外さなくなる。

だれの目線もない、鍵のかかった脱衣所でのみその秘密は暴かれるようになる。

しかし、しかしだ。

シャーレのアイス大作戦にてマリーは、こう言葉を発している。
“少しはしたなくても……先生の前だけなら、許して頂けますか?”

つまりマリーは、閉ざされた脱衣所か、先生と共にする寝床でのみウィンプルを外す……!!

これは決定的に明らかであり、自明の事柄であって、その神秘は崇高に至る。

ロイヤルブラッドならぬロイヤルエッチ

それが彼女の神秘である。
伊落マリーに祝福を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?