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井芹仁菜はジャンヌダルクではない

フックのあるワードで目を引こうとするのやめてください!!!!

まあべつにこんな題字で開くひといないけどさ。変わり者だけだよ。
それでも、おんなじこと思ってるやつがいると信じて(わざわざ調べたりはしてない)、書き記しておく。

分析による事実の解明ではなく、私見を連ねている点についてご留意ください。



ロックンロールの死



ここで言うジャンルダルクとは、神の声を聞き、オルレアン解放の旗手として祖国に殉じ、異端判決の末に火刑に処された少女のことだ。
逆境に立たされていたフランスに立ち上がった旗印は、人々に希望を見せただろう。

井芹仁菜の姿に、ロックンロールという旗印を見たひとは多くいるはずだ。

間違っていないと、常識に向かって反抗していく少女の姿に熱狂し、世界をひっくり返すような歌を期待していた。
そこに見えるのは、崇拝だ。理解はない。解釈された姿で、井芹仁菜というキャラクターは祭り上げられていった。ここに信仰が産声をあげる。
――もっと噛みつけ! 常識におもねるな! 中指立ててけ!
ときに自分を重ね、あのときの自分は間違っていなかったと慰める。

そして十三話を迎え、そこにいた井芹仁菜はどうだろう。
バンドメンバーに恵まれ、心の奥にある父に味方をしてほしかったという願いを叶え、絶縁した友人は自分にとって大切なものを一緒に好きいてくれた仲間であった。
人間関係の融和だ。傷つけられた相手との仲直りの握手を拒み、放送室を占拠して『空の箱』を歌う姿にロックンロールを見たひとは、合成油脂でできた甘ったるいケーキを食べさせられた気分になっただろう。

最後は中指(小指)を立てることなく、それは安和すばるによって行われた。そこには記号的な、『トゲナシトゲアリ』のアイコンとしての役割が見て取れる。
海老塚智がときおり仁菜に向けて見せるように、そしてそれを彼女が許していたように、仲間内での疎通のツールになっていたのだから。

『運命の華』を歌い終え、ギターをかき鳴らす仁菜の笑顔に、崇拝は崩れ落ちた。

ロックンロールは死んだ。

そんなわけがない。ロックンロールは鳴り止まない。

そもそもにおいて、井芹宗男もヒナもはじめから仁菜の敵ではなかった。彼女がただ、敵だと思い込んでいた。
二者に結ばれた融和は、互いを傷つけないための不可侵条約ではない。意思の疎通を通して、相手の思いを確認する行為によるものだ。
敵意がないのなら、そもそも争う必要はない。仁菜はただやみくもに怒っていたのではなく、自分の納得がいかないことに反意を示していただけなのだから。

差し伸べられた手を、プライドだけで跳ねのけたときには自責し涙する。やつあたりでシーリングライトを振り回し(ひとに向けるのは川崎風のコミュニケーション)突っ走って、ひとりでライトもつけられない現実に絶望に沈んでいく。そんな性格であると二話で描かれている。

では、敵の不在は井芹仁菜のロックンロールの死か。
そんなはずはない。敵は依然存在する。自分がいじめられないために、いじめられている子を助けない。そんな判断を、いつ仁菜は肯定した。

宗男やヒナとの融和で語られていることは、敵を見誤るなという簡素なメッセージだ。

世界において正しいとされていること。間違っていないと思うのなら、証明を。

そんな歌を歌った。「私たちのはじまり」は、世界に向けた宣戦布告である。
売上なんて関係ない。動員した客数なんて問題じゃない。数字という現実は後追いしてくるもので、自分たちの歌を歌うことが何よりも大切。
それをやり切ったから、『トゲナシトゲアリ』は笑顔を浮かべた。ざまあみろと、世界に対して中指立てているのである。

かくして、ロックンロールは鳴り止まない。それは序奏。はじまったばかりなのである。


神を火刑に処す信仰



井芹仁菜にとって『空の箱』は神の声だった。“正しさ”という常識に押しつぶされそうになっていた彼女に、間違っていないなら前に進めと背中を押してくれた歌は、まごうことなく啓示だろう。
その出逢いは自らが作り出したものではなく、運命と呼ぶべきものだったのだから。

やけに白いんだ やたら長いんだ
コタエはだいたいカタチばかりの常識だろう
指先が震えようとも
正解は無いんだ 負けなんて無いんだ
あたしは生涯 あたしであってそれだけだろう
これ以上かき乱しても明日はない
(空の箱)


そうして飛び立った少女の姿に信仰が生まれたのは、前項で語った通りだ。
信仰には神が宿る。
ではなぜ、仁菜は神を殺したのか。

ロックンロールは鳴り止まない。けれど、理想の井芹仁菜は終わりを迎えた――そんなもの、はじめからいなかったのだとしても。
確かに存在していた。だれもが敵に見えて、地元に戻る気なんて微塵もなく、東京を目指し川崎に足を踏み入れた少女は、確かにいた。
信仰は正しく結ばれなかった。けれど、そこに神を見たその瞬間は、嘘ではないのだ。

その像を殺したのは、なぜか。

神になったロックンローラーは命を奪われるからである。

ロックンロールにふれるなら、いつか眼前に現れる二十七という数字。
ロックスターは、二十七歳で死を迎える。


「十年経って生き残ってたらまたおいで」
(中田)


このセリフは、十年生き残れば一人前。そういった意図の言葉だ。
しかし同時に、仁菜にかかっている。

十七歳、三月に地元を離れた。作中の年月の経過で、現在は十八歳になっている。
十年後。二十八歳。
二十七を超え生き残ることが、仁菜には示されているのである。

すべてに反抗する姿勢がロックンロールであり、それに殉じたとしよう。
結局、その選択の行き着く先は火炙りだ。ステージライトの熱に、観客の熱狂に、ロックンロールへの熱意に、燃やし尽くされる。
ロックンロールが世界への反抗であるのなら、それは異端者だ。異端者には薪がくべられ、火がつけられる。
赤い目の蠍。みんなの幸いのため、夜の闇を照らす火。

ロックンローラーがロックンロールに食いつくされる。そんな道を、肯定はしない。

十月二十四日生まれ、さそり座。青い目の少女。

井芹仁菜は、生きるために歌っている。

「全部をさらして生きてやる」
(井芹仁菜)


やや脱線するが、上記の宣言から歌われた『視界の隅 朽ちる音』の与えた影響はすさまじいだろう。


灰になった後で ようやく気づいて
願いはいつまでも届かない
(視界の隅 朽ちる音)


これはルパの過去に共鳴するもので、あのライブを観た彼女の胸中は計り知れない。


変わり続けるこの世界で
僕ら 何を浮かべようか
何を掲げようか
(視界の隅 朽ちる音)


これはある種、井芹仁菜への信仰が確固となった場面だろう。
旗印きぼうが掲げられるのを幻視し、神を見た。

余談だが、同バンドの『爆ぜて咲く』のMVで旗を掲げている映像がある。それを持っているのは、すばるなのだ。
ここも考えるとおもしろいものが見える気がする。


何を掲げようか
君に会えるだろうか
全て終わる前に
この指で 描いていこう
(視界の隅 朽ちる音)


十一話でヒナが「いっくぞぉ♡」と叫んだ通り、彼女はこのライブを観ている。
観客がアップロードした動画を通して。

八話で仁菜と再会し、河原木桃香とバンドを組んでいることを知ったヒナだが、はじめ「知らない子」と突き放す評価を与えた。
ヒナからすれば、いじめに負けて中退した元友達でしかなかったからだ。
「宣戦布告」も、そのときの彼女からしてみれば、「あぁ、また同じ間違いを繰り返すんだ」といったものでしかない。

だが、仁菜の活動を後追いしていくなかで、変わっていっていることを知る。イヤホンを共にしたあの日、仁菜が自分を殺そうとしていると勘づいていただろう。友人だから。同じものを好きになれる、友人だったから。
それが、不登校と胸に刻んで生きてやると叫んでいたのだ。
魂は変わらない。いつだってバカな正論モンスター。異形として叩き伏せられたはず。でも、また戦っていたのだ。

ならばそう、君に会いに行くしかない。敵として。友人ライバルとして。中指を立てる。
死んでくれるな――死んでほしくないと、歌っている。

叫び足りないのこの世が 乾いた汗になびかせ
変わりゆくものに 一粒の願いだけ
叫び続けるよ 何度でも
残酷な宿命の鎖が絡みついていく
違う悲しみの輪廻
(Cycle Of Sorrow)


ナナ、リン、アイから桃香への曲であると同時に、ヒナから仁菜に向けられた歌でもあった。

(2024/07/03追記)
ヒナから仁菜への想いが上記であったなら、『ETERNAL FLAME ~空の箱~』にて歌われない、

溢れ出しそうなほど詰め込んだ
他人の箱を横目に
下手な愛想笑いすら やっぱり出来ない
(空の箱)

の歌詞は、おもねって生きられない仁菜を鎮魂する意味があるのではと思った。
もちろん、この曲のプロデュースにヒナがかかわっている可能性はないと等号だが、それを歌う彼女の意思は確かに存在する。
かつての友人と共にした世界を……そこから削られた詩に、死んだ(と思っていた)仁菜を想うことは自然ではないか。

だから、十一話にてトゲナシトゲアリのセットリストに『空の箱』があることには大きな意味がある。
そうやって変わらず生きていると、ヒナは仁菜から受け取ったのだから。たとえ仁菜にそんな意図はなくとも、ヒナはその瞬間にようやく生きている仁菜と結ばれた。
その結び目を通して、十三話にて理解を得たのだ。
(追記以上)


とまあ、道を戻し。
当然ながら、二十七歳を超えても世界的な熱狂を与えるロックンローラーなどいくらでもいる。
資本主義に取り込まれているのだからその精神は死んだ、と言うひともいるだろうが。
世界に反抗するということは、立ち向かっていくということである。
それはただ反発するだけでなく、理解の姿勢が必要ではないか。
理解を通して不理解を確認する。世界のすべてが敵でなく、許せないものはただひとつの事柄かもしれない。
敵を見誤れば、怒りでなくそれは狂気だ。
過ぎた信仰が排斥されるように。敵の実像を見ずに、ただ自分の内側にある虚構と戦うのなら、それは神を殺す行為にほかならない。
世界を敵だと信じることは、ロックンロールではない。

なぜ許せないのか。理由を突き詰めていけば、そこに愛が立ち上がる。
傷つけられたくないもの。譲れないもの。失いたくないもの。
その切望は、愛によってかたち作られる。

ロックンロールは、愛を叫ぶ音楽なのだ。

「好きなのか、この曲」

「いい曲だな」
「……いい曲だ」
(井芹宗男)


やくそく


そして愛は疎通されるものである。
彼女たちの歌が、世界との対話であると知れる。
私たちはこれを愛している。大切にしているんだ。おまえらはどうよ。おまえらの愛するものはなんだ。愛を抱えて生きてるじゃないか。なら、同じにはなれなくたって理解はしあえるはずだ。
それでも、愛を知ってるのに、私の愛を踏みにじるなら、それは認められない。

このコミュニケートにおいて、十三話最後のすばるの小指立てが浮かび上がる。

私は間違っていないと世界に中指立てる行為が、仁菜と桃香で疎通される小指立てに変遷したのは、喧嘩を売るのではなく、信念をもって立ち向かうと約束するからだ。互いに小指を立てたあの瞬間、その指は結ばれた。

十一話でヒナが立てた小指は八話の「宣戦布告」に対する返答であり、それは喧嘩を売るのではなく、信念をもって立ち向かうという決意表明だ。
ほかメンバーの立てた小指も、(主に)桃香へ向けたアイドルバンドとして覚悟を決めたという所信表明である。

音楽によってそれは伝わるはずなのに、なぜ行為にするのか。

約束行為だからだ。仁菜と桃香がそうであったように。
それはただ間違いに反抗するだけじゃない。自分らの音楽を曲げないこと。お客さんの期待に応えること。期待してくれたひとに報いること。
多くの意味を巻き込んでいく。これからも増えていくだろう。

記号と化し、意味もわからずただ小指を立てられるシーンが、バンドが続けばやってくる。
コミュニケーションの疎通がむずかしい。武道館に立つのなら、すべてのひとと対話することは物理的に不可能だ。
『運命の華』が大きな反応を得られなったように、伝えたいことが伝わらない。音楽は自由だからこそ、不通を孕む。

だがそのとき、小指を通してトゲナシトゲアリと観客には約束が結ばれるのである。
不可能であるとされたコミュニケーションが、ここで可能になる。
小指と小指を結ぶ行為は、個人間の約束だ。
アイコン化されることは、信念の標榜として作用し、同時にこうしたコミュニケーションを可能にするのである。

第三者として登場し、バンドとしてコミュニケーションを担当したすばるが掲げていることにも、大きな意味が生まれる。
先に書いた通り、旗を掲げているのもすばるである。
仁菜がバンドの方向性を定めているように、同じく音楽経験が浅いすばるもまたトゲナシトゲアリを体現しているのだ。

だから、ほかのメンバーが小指を立てる必要はないのである。もしあの瞬間、全員が全員小指を立てていたら、それは物理的に小指を立てられないひとを見捨てることになるから。
こうして約束の旗は掲げられた。


智が仁菜に小指立てるのは愛してるの裏返しである。ツンデレだ。……まあ、ふつうに不愉快だからだろうけど。

おわり


とまあここまで寝起きのテンションで綴ってきた。
なんかもっと言わなきゃいけないことも抱えてた気がするんだけど、仁菜を火刑に処すのはやりすぎだってみたいなことをずっと言いたかったので、とりあえずここで着地する。
ここまで読んでくれてありがとう。愛してるぜ。



すごい蛇足


「本気って伝わるんですね、桃香さん」
(井芹仁菜)

私情でしかないのですが。
本気でやったことが伝わるなんていうのは神話です。少なくとも、私の人生では五指で賄える数しかありません。あなたの人生はどうですか?
本気でやればやるほど、それは温度を帯びます。あるいは熱く、あるいは冷え冷えと。融点はなく、絶対零度も存在しない。そんなものにひとはふれられません。火傷をします。それでも握りしめてくれる関係に恵まれている場合もありますが、人間は独立であると考えているので、そういった例外措置を中軸に置くと多くを切り捨てることになりますね。
死ぬ気で努力してそれでも結果が出なかった人間は、努力が足りなかったのでしょうか? そんなはずはないのです。もしかしたら道を違えていたのかもしれなくても、その頑張りは否定されるべきではありません。もし否定こそが正しさなら、そんな世界は間違っていると私は思います。
だからもし本気が伝わる瞬間があるのなら、それは神が宿ったときです。信仰が生まれた瞬間です。祈りによって救いが与えられます。なぜなら、熱は伝播するものだから。どちらも、伝わるという状態です。
だから、信じるしかない。“作られたもの”というのは、作り手も受け手も、信じるしかないのです。

だからもし、絶望の底で何かを台無しにしたくなっても、信じてください。
それはとてもつらいことですが……だれも責任なんてとってくれませんが。
それでも、あなただけは、信じてあげてください。
あなた自身は信じられなくても、あなたがこれまで歩んできた道のりを。
その轍が、あなたが作ってきたものです。

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