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バー秀さんと東京ドーム

バーモント秀樹ことバー秀さんが、オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドームに出演しなかった。

ビトさん、TAIGAさん、ダブルネームのジョーさん、ニッチローさん。

この並びにバー秀さんがいないのは、さすがに違和感がありすぎる。

「次は東京ドーム」と言っていた人の一人で、
「だが情熱はある」にも出演していた。
オードリーを一番側で応援していた人のはずなのに、呼ばれていないなんておかしすぎる。

若様のDJのコーナーでは、
サンプリングされたバー秀さんの「大ドカンアーイ!」の声が響きわたり、本人がいつ出てもおかしくなかった。

しかし、バー秀さんが出ることがなく、東京ドーム公演が終わった。


まさかと思い、Googleで調べた。

『西城秀樹 (スペース) 東京ドーム』

そこには、西城秀樹にとって東京ドームがいかに特別な場所だったかが記載されたブログなどが残っていた。

西城秀樹は後楽園球場の最多公演アーティスト

スタジアム・コンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのが、西城秀樹である。

1974年に「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、大阪球場で実現した。
そのコンサートは、予算度返しで実現したそう。

その後しばらく時を経て、1978年。
ソロシンガーとしての初めて、後楽園球場(現・東京ドーム)で初ライブが開催された。
大阪で開催経験がある西城秀樹にとって、東京での開催は念願だったことが想像できる。

以降、後楽園球場では毎年コンサートを計4回行い、後楽園球場の最多公演アーティストになった。

野外でのこだわりが強かった西城秀樹は、雨男としても知られており、大雨の中のライブは、様々な伝説を残しているらしい。

西城秀樹にとって、東京で野外で演奏出来る貴重な場所であったことが伝わってくる。

しかし、1987年(昭和62年)11月8日。
後楽園球場は閉場した。
その代わりに、東京ドームが建設された。

東京ドームで西城秀樹は一度もライブをやらなかった

東京ドームは、1988年(昭和63年)3月18日に開場した日本初の屋根付き球場。
後楽園球場とほぼ同じ場所にあるが、西城秀樹が好んだ「野外」で出来る場所ではなくなってしまった。

それが理由だかどうだかわからないが、西城秀樹は東京ドームの舞台に立つことはなかった。

東京ドームが出来た頃は、ピークはとっくに過ぎており、年齢や病気などの色々な問題があったと思う。

しかし、これだけ後楽園球場を愛していた西城秀樹が、東京ドームでライブをやっていないことを考えると、特別な思いを抱えている場所であるのは、容易に想像できる。

西城秀樹が東京ドームに対してどう思っていたかは、検索しても出てこなかった。

時代が違うので、本人は後悔はないかもしれない。
しかし、ファンは東京ドームに立つ西城秀樹を、一度でもいいから見たかったんだろうなと思う。

西城秀樹は2001年秋に脳梗塞を発症して以降、病気と戦いながら活動していた。
晩年はたとえ口パクでも、ファンのためにステージに立ち続けたらしい。

そして、2018年に西城秀樹は亡くなった。
わずか63歳だった。

御本人様あってのモノマネ芸人

モノマネは所詮モノマネ芸人。
御本人様は手の届かないような高い高い場所にいて、スターである前提があって、モノマネが成立する。

私たち素人は「本人超え」なんて言葉を軽々しく使ってしまうが、モノマネ芸人にとって、それは褒め言葉ではない。
御本人様のリスペクトがある前提のモノマネで、リスペクトがお客様に伝わらなかったら、単なる小馬鹿芸になってしまう。

『西城秀樹が東京ドームで歌ったことがないから出演を断った』かどうかについては、バー秀さん本人ではないので、真相は分からない。

ただ、西城秀樹のモノマネ芸人であるバーモント秀樹は、たとえ口パクであったとしても、東京ドームで歌うことをしなかった。

バーモント秀樹としてステージに立つのではなく、今岡 正浩として観客で見ることを選んだ。 

そうやって思って振り返ってみると、
ビトたけしさんが浅草キッドを歌わなかったのも、
TAIGAさんが世界的スターであるはずのエルヴィス・プレスリーのものまねをしなったのも、
すべて辻褄があう気がする。

西城秀樹が立つことがなかったステージに、オードリーが立つ。
もう、こんなにも高い高い場所に来てしまうほど、オードリーはスターになってしまったのだ。

※サムネイルはバーモント秀樹さんのTwitterから引用しました。

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