納車

【 1983(昭和58)年6月 20歳 】



 今の日時は1983年6月2日木曜日の午前11時。そろそろ出かける時間である。一昨日電話があり、予定通り今日6月2日、午後1時過ぎに納車ということになった。案の定私は殆ど眠れていない。もう興奮が止まらない…止めようがなかった。どうせ眠れないのなら無理に眠ろうとせず、いっそ勉強でもしてやれと思って教科書を開いたのだが…やはり何も頭に入ってこない。所詮悪あがきである。元々勉強が嫌いなのにこんな状況で上手くいく訳がないのだ。それ一つをとっても私は冷静ではなかった。もう…狂おしいほどの時間だった。が! 遂にその日その時間がやって来た。
 向かう場所は松江のお店。契約は米子だったが、どのみち松江の陸運局に車を持って行って車検を通さなければならないため松江のお店に留めておいた方が効率がいいわけだ。その上私の住む出雲からも近くなるということで万事がいい方向へ向いていた。一畑電車で松江温泉駅に向かい少々遠いが後は徒歩で3~4kmを歩くことにした。アパートから電車の待ち時間などを考えて約2時間。いざ出発である。
 先ずは徒歩で出雲大社前駅に向かう。今まで何度も通った道だが歩いたことは殆どなかった、が、これがなかなか新鮮なものだった。

『こんな所にこんなものがあったんだ…。』

今まで目に入らなかった店や風景がたった10数分のうちに沢山発見することができた。これから車の生活が始まるのでこの道を歩くことが益々減るであろうから妙な感じではあるが、とにかく今はゆっくりと街の風景を楽しんだ。程なく駅舎に到着。切符を買い電車に乗り込む。下調べしていた通り、待ち時間もたった2分程度で電車は出発した。ここから松江温泉駅まではおよそ1時間。緩やかに東北東に進路をとり松江に向かう。電車での行程の内、宍道湖の北岸を通るのは約20km、時間にすると35分くらいだ。その区間は線路のすぐ右下(南側)に国道がある。初夏の強い日差しが北の空から湖を照らす。南を向きそれを見ている私の目に波で乱反射している光が時折飛び込んでくる。その光の中に長い竿を持った人が乗る小舟が見えた。おそらくシジミ漁だろう。某国営放送が日本人のノスタルジーを呼び覚ます音楽とともに放送したいであろう古き良き大和の国の風景がそこにはあった。が、この風景が私に思い出させるものは、そんなセンチメンタルなものではなく、もっと現実的なものであった。

『ああ…仮免のために何度ここを往復したことか…。雪の日はあの軽トラのおかげで大変だったなぁ…。そう言えばミモちゃんが乗る電車をバイクで追いかけたこともあったな…。』

そんなところである…。しかしそれでも私はこの道、この風景を一生忘れることはないであろう。そんな複雑な想いに身を委ねつつも電車は終着駅松江温泉駅に到着。私は迷うことなく一直線に宍道湖大橋に向かった。この橋は1年と2か月前にミモちゃんと初デートの時歩いた橋だ。

『夕焼けがとてもキレイだったな…。火星と土星と木星も…奇跡的に並んでいた日だったな…。ミモちゃんと初めてキスしたのもここだった…。』

何というか、宍道湖北岸の国道といい宍道湖大橋といい、この道のりは色々なことを私に思い出させた。あの日、ミモちゃんとデートして付き合い始めていなかったら私は車を買う決心をしなかったであろう。今日この道を歩いていることもなかったはずである。そんな風に考えるとなかなかに感慨深い。
 国道9号線にさしかかり左に折れ東に向かう。後は真っ直ぐ約3km。30分くらい歩くだけだ。1歩1歩と足を運ぶ。1歩1歩近づいていく。興奮が…鼓動がだんだん大きくなる。1歩1歩。1歩1歩。おそらくその時の私の顔は夏の暑さのせいもあり紅潮し汗まみれで、息は荒く、それでいて半笑いであったに違いない。第三者がみれば完全に変質者のソレだ。昼間の国道だからよかったものの夜なら間違いなく警察から職務質問の対象として扱われていたであろう。そして遂に肉眼で目的の店を捉えた。300m程先か? それを見た次の刹那、私は堪らなくなって走り出していた。
 店に到着した時、私の興奮は最高点に達していた。ぐるりと展示車を見渡し私のセルボを探そうと…とっ…いや…探そうとぐるりと見渡す必要もなく事務所の真正面にそれは置かれていた。そしてその横では店員さんがセルボに何かをしている。どうやらタオルを持っている。ああ、拭いてくれているのだと思った。近づけば、

「あっ今日は玖津木さん。」

「あっどうも。今日は。」

誰あろう、店員さんは奥田専務(息子)だった。店員さんは続けて、

「もう少しでワックス終わりますから、よろしければ事務所でお待ちください。」

なんて言われるが、私にはそれどころではない。急ぎそのままセルボに近づき色を確認する。赤のペイントが気になって仕方がない。座っていられるわけがなかった。そして間近でシルバーから赤に生まれ変わったセルボを見る。

「ああもう…思ってた以上にいいじゃないですかっ!」(私)

「ええ、私もここまで似合うとは思っていませんでした。」

「オリジナルカラーよりもずっといいですね。ほんとうにありがとうございます。」

「いえいえ、こちらこそ。気に入っていただいてよかったです。ホッとしました。」

それはもう当に ”赤” だった。いや…赤と言うより ”真紅” だった。美しく精悍で申し分がなかった。また驚いたことに、

「玖津木さん。実は社長がどうしてもヤレと言うので。」

っと店員さんがドアを開けて説明をすると…車内のペイント部分もすべて赤になっていた。

「えっ! これは…これって…。」

「はい。社長からのサービスです。」

そう外観だけという契約だったのだが、車内つまり内観まで…そうオールペイントにしてくれたのだった。つまり更に2万円分のサービスをしてもらったことになる。

「あの…いや…ありがとうございます。本当にうれしいです。この車、大事にします。」

「そう言ってくださると社長も喜びます。こちらこそありがとうございます。」

私はこの時、本当に決心してよかったと思った。大金の買い物であり初めての買い物、内心すごくビビッていたがよい買い物をしたと改めて自分を褒めた。
 ともあれ、一旦事務所に入りお茶をいただいた。冷たい麦茶を一気に喉に流し込んだら少し気持ちが落ち着いてきた。テーブルの上で雑談を交えながら様々な書類を渡されその説明を受けた。そして支払い。私はカバンの中から昨日銀行で下ろしておいた現金38万円の入った封筒を出し店員さんの前に置いた。その時の気持ちは何とも複雑なものであった。雨の日の決心、出雲電子のバイト、苦しんだ仮免、雪の日の転倒などの情景が頭の中で次々と溢れてくる。

「これって、アルバイトで貯めたんですよね。」(店員)

「はい。」

「ほんとに凄いですね。社長も言ってましたが、なかなかできないですよ。」

「そんなことないですよ。留年しなかったら自慢できたかもしれないですけどね。」

「まあ、それは残念ですが、でも目的を果たされたのは確かですよ。ここには色んな方がおいでになりますが、玖津木さんのような学生さんの場合、殆どが親御さんとやって来て親に車を買ってもらったり、結局返さなくてもいい借金を親にするというのがパターンです。それを考えるとこの38万円は凄い価値のあるお金ですよ。」

店員さんはとにかく感心してくれた。さすがにちょっと照れてしまうくらいだったが、でもそのお蔭で頭の中も胸の中もなんだかスッキリした。
事務手続きは不備もなく完了した。さあ、いよいよ引き渡しだ。立ち合いの上車の整備状態を確認し、各メーターの説明、スイッチ類の使い方を教えてもらった。あと、スペアタイヤや工具の使い方等を簡単にレクチャーしてもらった。そして最後に車検証を受け取り納車のすべてが完了した。っと思ったら店員(奥田専務)さんから一冊の本と手紙を手渡された。それは社長と約束した網本先生に返す本だった。手紙はもちろん社長から網本先生宛てだった。私は笑顔で受け取り。

「確かにお預かりしました。社長さんによろしくお伝えください。」

「はい。何か不都合があれば気軽にご相談ください。」

「わかりました。その時はよろしくお願いします。色々ありがとうございました。」

「ありがとうございました。」

挨拶を済ませ私はやっと自分のものになった愛車セルボに乗り込んだ。キーを回しエンジンを掛け今一度会釈をしギアをローに入れ颯爽と発進…するはずだったが盛大にエンストしてしまった。店員さんは思わず苦笑い。まあ…初めて運転する車の場合よくあることだから仕方がない。私は直ぐにエンジンを掛け直し照れ笑いをしながら何とか発車した。ちょっとエンジンを吹かし過ぎた感はあったが、2度目はしくじらなかった。


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